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​なぜ現代人はクリエイティブを求めるのか?

​今日、世界中ではクリエイティブであることが求められている。これは時代が通る道なのか?それとも、資本主義の産物なのかこの時代の流れに哲学的な観点から考察してみたいと思う。

​第1章 ある意見から

まずは、なぜクリエイティブが求められるのかということを実際にあった意見をもとに考えてみたいと思う。

  

                  

 

 

 「なぜクリエイティブが求められるのか」という問いに多くの人がこう答えるのではないか?私もこの意見には賛成であり、もはや常識となっている。しかし、この意見では完全に答えられていないような気がする。この違和感の正体を突き止めたいと思う。

 確かに、世界中では「クリエイティブであれ」という言葉が声高に叫ばれている。人類史上、ここまでこの言葉が叫ばれたことは無いだろう。では果たして、今まで人類はクリエイティブでは無かったのか? 今、人類にはクリエイティブが枯渇しているのか?もちろん、両方とも答えはNOだ。

 人類史を振り返ってみよう。数千年前、先住民族が着ていた衣装はとてもクリエイティブである。そして、世界的なファッションショーの衣装は、どこか先住民族の衣装に似ている。

人類は昔からクリエイティブを求めていたからこそ、このような遺産が出てくるのではないか。また、ファッションショーからも分かるとおり、現代にクリエイティブさが無いのは考えられなし、むしろ充満している。では、一体何が私たちをクリエイティブ信者へ喚起しているのか? この問いに答えるために、近代のクリエイティブ・パーソンの代表といってもいいピカソと現代のビジネスマンを比べてみたい。

         

 ピカソの作品は、つい、なんだこれはと言いたくなるような作品を残している。しかし、世間では「独創的だ!」「アメイジング!」と言われ、一枚の絵画に何億円もの値段がついている。それは、画商やピカソ自身が、絵画オークションを動かし、ピカソの作品は多大な価値があると認めさせたからだ。それが(値段からかもしれないが)、世間にまで広がり、ピカソは天才だと知られるようになった。

 ピカソの作品が認められるまでの経歴、つまり、ピカソから一般の人へ、クリエイティブが喚起されていった、という方向性を覚えておいてほしい。(なぜピカソから一般の人への向きか、というとそれは私たちがピカソの作品を見て、すごい作品だとピンとこないためだ。つまり、ピカソ側が「この作品はクリエイティブだ。君たちはこのクリエイティブさがわかるか?」と半ば強要したことにある。)では現在のクリエイティブの方向性は、どのようになっているか確認しよう。

 現代ではだれがクリエイティブを喚起しているのだろうか?それはビジネスマンか?ビジネスマンはCMなどで一般の人にクリエイティブを喚起している。しかし、わたしはこの首謀者がビジネスマンでは無いと思う。なぜなら、ビジネスマンは資本主義経済によって、無理やりクリエイティブな商品を作らされている。言い換えれば、ビジネスマンはクリエイティブを喚起されている。ではビジネスマンを動かしている資本主義経済こそが、現代のピカソなのか?そうである。資本主義経済が現代のピカソである。

 資本主義経済において、ビジネスマンは商品を差別化させて、新たな価値をつけなければ、後は他社との価格競争に巻き込まれるだけだ。ビジネスマンにはクリエイティブな商品を作り、一般の人にクリエイティブを喚起するしかない。

 現代においては、資本主義経済→ビジネスマン→一般の人 という方向性でクリエイティブが喚起される。ここで、ある意見が正しいことが分かるだろう。しかし、これだけでは「なぜクリエイティブが求められるのか」という問いに半分しか答えられていない。なぜなら、これは「売り手がなぜクリエイティブを求めるのか」という問いの答えであり、「買い手がなぜクリエイティブを求めるのか」という答えにはこたえられていない。(もし、売り手がCMなどで買い手を誘導しているからだ、というのであれば1/4のこたえでもいい)後の半分(1/4)の答えが、見過ごされてきた答えであり、違和感であるはずだ。

 

 第2章では、なぜ買い手がクリエイティブを求めるのかという問いを見ていきたい。そこで、自由を「つくる自由」「選ぶ自由」という2つに分解し、その関係性を見ることで何がクリエイティブを喚起しているのか確かめていく。

 

          

 

        

 

 

 今、資本主義経済の中では効率化、コストの削減を目指し、家を建ててから売りに出すという方法がとられている。これは、建設業者が家を作り、不動産が家を売るという方法だ。これをレディメイドと呼び、消費者は不動産が提示する家を買うことになる。消費者は不動産にいき、自分からオススメの家を聞くこともあるだろう。飲食業界ではネットでの口コミがはやっていたりもする。また、この対義語はオーダーメイドだ。こちらでは、消費者が自分で家を作ったり、独自の家を職人に委託して作る。

 数百年前、まだ資本主義が発達していなかった頃、社会では家をつくる時はオーダーメイドでつくっていた。しかし、レディメイドが主流である今、私たちは家を商品として選択肢から選ばなければならない。言い換えれば、ほとんどの現代人は「選ぶ自由」しか与えられていない。また、資本主義経済が「つくる自由」を搾取したとも言える。

 しかし、オーダーメイドが主流であった時代、私たちは自分なりに「つくる自由」が与えられていた。「つくる自由」は自分が好きなものをつくることであるのに対し、「選ぶ自由」とは(たとえ好きなものであったとしても)相手から提案されたものであり、受動的なものでしかない。

 経済が発達するにつれて、社会は何でも商品にするようになった。現代人は食べ物にしても、服にしても、商品として選択肢から選ばなければければならなくなった。

 現代人は普段、暮らしていて「つくる自由」に接する機会が減ってしまった。だから、現代人は自分なりにつくるという、クリエイティブさを求めているのではないか。

 そして、資本主義経済はその欲求を満たすために新たな商品を生み出そうとしている。私たちはこうした循環に陥ってしまっているのではないか。

​ レヴィ・ストロース著の『野生の思考』には日曜大工という意味の「ブリコラージュ」といいものがでてくる。このブリコラージュがクリエイティブをうまく説明しているように思われる。

​第3章 『野生の思考』から
「つくる」「選ぶ」「ブリコラージュ」

 レヴィ・ストロースは神話や儀礼が規則性の発見を促し、近代科学へ発達させた要因であると説明した上で、次のように語る。

(ブリコレの説明は第4章にまわす)

 

 

 ここでのポイントは「ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る」ということだ。「ブリコラージュ」はただ自分の手でつくればいいのではなく、ありあわせの道具で作る必要があるのだ。ブリコルール(器用人)がビジネスマンと異なる点はここにある。ビジネスマンだって、限られた資源で、限られた道具を購入しなければならないかもしれない。だが、ビジネスマンは道具購入する過程で、道具を選んでいる。道具があることを前提としているという点で、ブリコルールとは、決定的に異なっている。ビジネスマンには、道具を選ぶ過程で、「つくる自由」が制約されてしまい、「選ぶ自由」しか残されなくなる。その理由を次の「学術的思考」と「経済的思考」と第4章で明らかにしたいと思う。

 原始的科学というより「第一」科学と名づけたいこの種の知識が思考の面でどのようなものあったかを、工作の面でかなりよく理解させてくれる活動形態が、現在のわれわれにも残っている。それはフランス語でふつう「ブリコラージュ」brikolage(器用仕事)と呼ばれる仕事である。ブリコレ brikorer という動詞は、古くは、球技、玉つき、狩猟、馬術に用いられ、ボールがはねかえるとか、犬が迷うとか、馬が障害物をさけて直けて直線からそれるというように、いずれも偶発運動を指した。今日でもやはり、ブリコルール bricoleur(器用人)とは、くろうととはちょっとちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。

                                           『野生の思考』p.22

「学術的思考」と「経済的思考」

 まず、この2つの思考の説明からしたい。「学術的思考」とはもちあわせた道具で考えるのに対し、「経済的思考」とは道具をそろえることから考える。本を例にして考えてみると、前者は本を頭に入れた状況で考えのだが、後者はよい本を見つけるために考える。つまり、両者の目的は本の内容を追求するか、よい本を見つけるかにある。もちろん、後者はよい本を読み、その内容を実践するだろうが、クリエイティブに関して言えば、この実践をするかしないかは大きな問題ではない。問題は、両者の思考法のどちらが新しいものをつくり出せるかということである。経済的思考はその実践の過程で、何か新しいものを得るかもしれないが、それはどちらかといえば模倣に近いだろう。

 なぜこの思考の名前を「学術的思考」と「経済的思考」と名づけたかと言うと、まさに現代の経済はこの「経済的思考」の色が濃くなっていると思ったからだ。以前はオーダーメイドで作っていたものも、分業が発達し、資本主義経済が基本的な経済体制になっていく過程で、どんどんと人を選び、材料を選び、販売経路を選ぶようになっていった。その結果、受験戦争や就職活動、企業間の競争が激化し、ますます「選ぶ」ことが多くなった。この経済体制から「つくる」ことが軽視されているようにも思える。

 ここでクリエイティブな考えとはどういう考えなのかを見ていきたい。

 まず、クリエイティブであるには社会、または個人に害をもたらさないものである必要がある。例えば、中央にペンギン型に切り取られたノートがあってもクリエイティブだとは言われないだろう。なぜなら、そのノートは本来の用途である書き取るという機能が失われるからだ。

その次に、ありあわせの道具でつくる必要がある。クリエイティブであるには新しい発想でつくらなければならない。そのため、「選ぶ」ことで新しいものを「つくる」ことができなくなることはあってはならない。この二つからクリエイティブの定義をしてみたい。

​ チョコラーメンはクリエイティブか
​クリエイティブの定義

①新しい発想で社会、または個人に害を与えない

 

②「選ぶ自由」を含まず、ありあわせの道具でつくること。

 これがクリエイティブの定義だとするならば、チョコラーメンはクリエイティブであるのか。私はチョコラーメンがクリエイティブではないと考える。そしてもう一度、『野生の思考』を見ていきたい。ブリコルールが使う、もちあわせの道具とはなにかの説明である。

​ そして「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら、「もちあわせ」の構成内容は、目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである。【中略】器用人の用いる資材内容は、単に資材性〔潜在的有用性〕のみによって定義される。

                                                                          『野生の思考』 p.23

​ もちあわせの道具であるためには、いかなる特定の計画にも無関係でなければならない。そのため、商業的な目的があったり、私的な目的(ツイッターにあげるため)があったりする時、チョコラーメンをつくることはクリエイティブではない。その時、チョコラーメンは「偶然の結果」ではなく、故意に材料が「選らば」れていることになる。では、偶然チョコラーメンを考えついた人はクリエイティブであるのか。いや、たとえチョコラーメンを偶然、考えついたとしても、クリエイティブではないだろう。なぜなら、チョコラーメンには資材性〔潜在的有用性〕がないからだ。資材性〔潜在的有用性〕とは、つくる段階において、まだその内に秘めている価値である。しかし、それはつくり終わった後に、価値があるか価値がないかがわかるのだ。私にはチョコラーメンは不発であるように思われる。では成功したのは何かと問われれば、例えば、ハンバーグとニンジンの組み合わせであるだろう。いまでさえクリエイティブとは思われないが、その組み合わせの異色さ、今までその組み合わせで食べられていることからしたら、十分に資材性があるといえるだろう。

 このことからクリエイティブの定義にもうひとつ付け加えることができるだろう。

​クリエイティブの定義

①新しい発想で社会、または個人に害を与えない

 

②「選ぶ自由」を含まず、ありあわせの道具でつくること。

NEW③つくり出すものに資材性があること

​補章 自由とは何か

 第3章では主に、「つくる」ことと「選ぶ」ことの違いを見てきた。ではそれが、「選ぶ自由」と「つくる自由」に変わると、どのような変化が起きるのか。それを自由をめぐる議論から確かめていきたい。

​決定論と自由意志論

 自由についての議論には大きく分けて2つの論者が存在する。1つは決定論者。彼らはドミノ倒しのように、宇宙が始まった時点で、すべての事柄が決定されていると語る。それゆえ、「私たちに自由はない」「私たちは法則に支配されている」というのである。2つ目の論者は自由意志論者。彼らは決定論者が自由意志を否定することで、「私が殺したのは既に決定されていた」という犯罪の正当化が行われてしまうと語る。それゆえ、「自由は必要だし、自由意志の委託だ」というのだ。この対となる2つの論理から自由について考えていきたい。(両立論の考えは本論では扱わない)

 まずは決定論だと、宇宙の始まりはどうなるかを見ていきたい。果たして、決定論の宇宙の始まりは正しいのだろうか。

 決定論はすべて、因果関係によって成り立っているが、一番最初の原因は決定されることがない。なぜなら、その一番最初の原因は、その前の原因を持たないため、決定されることはない。よって、それは偶然である。(ここでの偶然とは、確率が低いという意味での偶然ではなく、AとBの二つの選択肢をランダムに選ぶとき、なぜA(B)が選ばれたのかという意味の持たない決定という意味での偶然である。)

 例えば、宇宙が始まった原因がビッグバンであったとしてもその前に原因はない。そのビッグバンを起こしたのが神であっても、神が生まれる原因はない。ゆえに、神の誕生もビッグバンも決定されることはない。もしこのことに違和感があるのなら、おそらくそれは今の私たちを基準にして、時間の進行を逆転させ、宇宙の始まりを計算の結果、ビッグバンを決定したことと混同しているのかもしれない。つまり、因果関係の始まりをビッグバンではなく、〈私〉においているのだ。

 この宇宙の始まりを決定論的とするか、自由意志(偶然)論的とするかはさらなる議論が必要である。しかし、〈私〉についてだけなら、それなりの答えが出せるかもしれない。

 〈私〉は決定論的なのか、それとも自由意志論的なのか、答えは両方であるように思われる。なぜなら、自分が得になることには決定論的になり、得がどうかわからないときには自由意志論的になるからだ。。例えば、AとBの箱のどちらかに食べ物が入っていて、そして、AとBどちらかを選び、食べ物を手に入れろという命令が与えられたとする。そのとき、Aに食べ物が入っている確率が7割、Bに食べ物が入っている確率が3割だとすると、Aを選ぶことが普通である。(もしBを選ぶ人がいるなら、その人は反発自由意志によって動いたことになる。)この場面でAを選ぶことは決定論的であり、そこに自由が入り込む隙はない。ではAとBの確率が5分5分のときはどうか。その場合、私たちはどちらを選んでもよい。もはや、どちらを選ぶことはせず、偶然によって選ぶだろう。この自由意志論的な決定が「つくる自由」であるといってもいい。つまり、私たちにとってどちらに食べ物が入っているかはわからないが、どちらかは資材性〔潜在的有用性〕を確実に持っているのだ。

 損得がはっきりしているときは「選ぶ自由」が使われるのだが、そこには実は自由などない。まだわからないものを選び、新たな可能性を発見すること、つまり「つくる自由」こそが、自由を享受し、クリエイティブであることの方法である。

ある意見;世界中でクリエイティブが求められるのは、資本主義経

で、常に新し商品が求められるからではないのか。社会が既

存の考えでは無く、クリエイティブな考えを求めているからだ。

​第2章 自由から
​ ピカソと現代人
​ 「つくる自由」と「選ぶ自由」
​まとめ

 第1章では、売り手がクリエイティブを求める理由について、第2章では買い手がクリエイティブを求める理由について見てきた。後者のクリエイティブへの欲求は、人類がなぜクリエイティブを求めるのかという問題に直結しているように思われる。そこで、第3章、では『野生の思考』、自由とは何かという問いから、未開社会から存在するクリエイティブを求める欲求を探っていった。

 この記事では「つくる自由」とクリエイティブを同義のものと考えた。なぜなら、「つくる自由」には創造(新しいものを初めてつくり出すこと  コトバンク)を生み出す力が備わっているからだ。そして、その力を持つものはクリエイティブな人と見なされるだろう。

 クリエイティブは古代から存在する人間のもつ力なのである。

​ この3つのものでクリエイティブが定義できるはずだ。この章でこの記事を終わりにしてもよいのだが、クリエイティブを通り越して、自由について論じることができそうなので、補章として論じていきたい。

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