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​アリストテレスとアウグスティヌスの時間論の比較

アウグスティヌスはアリストテレスの時間論の影響を色濃くうけているが、アリストテレスにはない視点から時間の本質を説いている。一方でアリストテレスも明達な論理展開から見事な証明をおこなう。アウグスティヌスは神と時間との関係を述べることから、すでに時間を前提として論じるが、アリストテレスは時間の有無についてから論証する。神の時間はアウグスティヌスによれば、「現在である永遠の高さ」にある。これはアリストテレスも(厳密には異なる意味で)「無限の今」といっている。ここでアウグスティヌスとアリストテレスは対立する。アウグスティヌスは神が人間のいる有限の時間を創造したという主張から、必然的に神の時間と人間のいる時間は両立すると説くが、アリストテレスは「無限の今」と「(有限の)今」は両立できないと説く。アリストテレスと「無限の今」とアウグスティヌスの「現在である永遠の高さ」の違いから永遠とは、時間とは何かを説いていく。

 

 

 アウグスティヌスの論調からは、神が過去、現在、未来すべての時間を創造した、という主張となるのが明らかである。しかし、これは神が未来をすでに決定しているということを表してはいない。なぜなら、アウグスティヌスは神が現在において永遠である存在としてみなしているからだ。つまり、神は人間の時間でいう現在にのみ存在するものであり、その存在は消滅することはない。そのことをアウグスティヌスは「常に現在による永遠の高さによる」と述べ、また「あなたが「すべての時間に先立つ」ことはできないはずです」と述べている。しかしながら、アウグスティヌスは「常に現在である永遠の高さ」によって、「すべての来たるべき時間を追いこしておられます」とも述べている。なぜなら、たとえ神が未来を創造したと主張しても、それは神が未来、現在、過去いずれの時間においても存在するということをあらわさないからだ。つまり、存在論的に神は現在においてのみ存在するが、認識論的に神は未来、現在、過去すべてを知っている。神は全知全能の完全体としてすべての時間を知っているだけであり、未来に神が待ち構えているということはないのである。

 アウグスティヌスが時間における神の存在を説いているのに対し、アリストテレスは時間が存在するのかしないのかを説いている。結果として、アリストテレスは時間が存在しないと論証する。それは3段階の論証で明らかとなる。すなわち、時間は過去、未来の2つの部分をふくんでいる。しかし、過去はとうに消滅して存在しないものであり、未来はいまだに存在していないものであるから、現実にある現在からしか時間は成り立つことができない。しかし、現在だけが存在しているならば、時間は動くことはない。そのために、時間は存在しないというわけである。アリストテレスは宇宙の時間性をすべて消し去り、今起こる事象に目を向けることになる。

アリストテレスは消滅する「今」と消滅せずに永遠に存在する「無限の今」の共存は成り立たないと説く。「無限の今」とは、未来、過去へと無限に伸びる今である。たとえば、今あなたは文章を読んでいるが、これは一定の過去と未来を含んでいる。そして、あなたは今、文章を読んでいるよりも長い時間、生きている。このようにして無限に今を長くしていくのが「無限の今」である。アリストテレスの主張する「無限の今」は、アウグスティヌスの主張する神の現在における永遠性とは異なる。というのも、「無限の今」は現在が時間軸における横の延びに対し、神の現在における永遠性は縦の延びによってあらわされるからだ。神の永遠性は消滅しないということをあらわし、いかなる未来や過去にも存在していない。そのために、アリストテレスが「今」と「無限の今」との共存はありえないと主張したことと、アウグスティヌスが神は「常に現在における永遠の高さによる」と主張したことは、お互いに矛盾することはない。むしろ彼らの理論を統合させることが可能となる。つまり、時間軸において横に延びる無限性は存在しないが、縦に延びる永遠性は存在する、ということだ。

(スピノザとの対比でもあらわす)アウグスティヌスはこの主張に同意するだろう。なぜなら、「もし時間が恒存するとすれば、もはや時間ではなくなるでしょう」と述べている。つまり、時間の横に延びる無限性は認めないということだ。

 アウグスティヌスが2つのベクトルの永遠性を説明しているのに対し、アリストテレスは縦の永遠性を考慮に入れていない。というのも、アリストテレスは現在を点のようにただ「ある」ものとしてとらえて、縦の延をみないからだ。それは俯瞰することができないモノのようである。それに対し、アウグスティヌスは彼の「今」の時間の意味を修正している。それは現在をただ「ある」ものとしてとらえるのではなく、「ない方向にむかっている」という意味でとらえるということだ。アウグスティヌスは「今」を点として考えない。神の縦の永遠性を認めていることからもそれは明らかである。アウグスティヌスは時間における高さから未来と過去とを認識できると考え、その意味において未来と過去とを「ある」と認める。私たちは未来、現在、過去があることを「今」考えているのだが、俯瞰してみることで、ある一定の範囲における時間の推移をみることができる。その光景はまるで現在がつねに消え去っているようにみえるのである。つまり、私たちが点のように存在しているだけでは未来も過去もみることはできない。時間の高さによって未来と過去がみえるようになれば、未来と過去が「ある」ように思えるのだ。アウグスティヌスが「ない方向にむかっている」と述べたのは、未来と過去がみえているからであり、そのなかで「今」が過去に変わっていることに気づいたからである。この意味においてのみ、未来と過去は「ある」と述べることができる。 

 アウグスティヌスの時間論にとって有名なセリフがある。それは「過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。」というものだ。アウグスティヌスは、アリストテレスの未来と過去は存在しないという主張を受け継いだ。それは過去がもう消え去ったからであり、未来が現れておらず、現れるかどうかもわからないからだ。しかし、時間の高さから未来と過去を見下ろすと、未来と過去が「ある」ようにみえる。それは人間が現在にしか存在しないにもかかわらずだ。アウグスティヌスが「〇〇についての現在」と述べているのはこのような意味における。また、人間が未来や過去を見下ろすには「期待」や「記憶」といった心的な能力が必要なのである。私たちは「期待」がなければ、次に何が起こるかという未来がみえてこない。同様に、「記憶」がなければ、過去があったということがわからない。アウグスティヌスによれば、未来や過去は「期待」や「記憶」という心的な能力によって認識される。過去や未来は記憶量や未来を予測する精度によってその認識できる量が増えたり減ったりする。つまり、過去や未来は認識する者の知識や能力によって増減する。そのために、時間の高さとは知識や能力の高さをあらわすのである。神は全知全能であるためにその高さは永遠となる。しかし、人間は知識や能力に限度があるため、すべての過去や未来を見通すことはできない。しかしながら、私たちは知識を増やし、能力を高めることで神の永遠性に近づくことはできる 。それがアウグスティヌスにあって、アリストテレスにはない永遠のとらえ方である。

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