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​カント哲学と国連に足りないもの

 ここではまずカント哲学に触れたうえで、カントが提唱した国際連合の理念には何が足りなかったかを述べていく。

​ カントは自己愛を"Eigenliebe"(自己自身への愛)と"Eigenduenkel"(自惚れ)とに分け、後者を道徳の敵とする。前者は子供にも見受けられる人間に自然な自己愛であるが、後者は理性を差し置いてその強烈な欲望を満たすことで道徳的善さの原理になると自覚する独特の「自惚れ」である。例えば、功利主義のようなお金がほしいという欲求を道徳的善さの原理とするような考え方をカントは「自惚れ」という。そして、その自惚れを徹底的に打ちのめすような、より高次な純粋実践理性が必要なのである 。つまり、自惚れとは、例えば忙しい場面で声をかけられたときにその問いかけに答えるのは、その人とのその後の関係があるからというような仮言命法的な自己愛のことである。このように考えるのであれば。「自惚れ」に対して、「自己自身への愛」は定言命法的な自己愛ともいえるのではないだろうか。つまり、無条件に他人を思いやることが「自己自身の愛」につながるのである。(仮言命法とは理由のある定義で、定言命法とは理由のない定義である。)

 カントは幸福になること、自己愛が存在することについて否定することはない。それどころか自然の本性として肯定する。中島義道はこのことについて次のように語る。

​ 『悪への自由』

 カント倫理学は徹底的に功利主義を敵対視していながら、人間における快や幸福追求の普遍性を功利主義と同じくらい、いやそれ以上に認めている

 帰結主義か動機主義かの違いはあるものの、カントと功利主義において幸福追求という方向性は変わらないのかもしれない。

 補足)カント(1724~1804)はその倫理学において動機を特に重要視している。そして、人の行為の善し悪しはその結果ではなく、その動機によって判断されるべきと考える。この考え方はJ・ベンサム(1748~1833)を基とする功利主義の考え方と対立することになる。功利主義の特徴としては①帰結主義(政策や個人の行為の善し悪しは、その結果によって判断できると考える)、②効用主義(帰結の善し悪しは、当事者の主観的快=効用(utility満足度)の増加あるいは減少のみで判断できると考える)、③総和主義(当事者の効用は基数的に足し算ができると考える)の3つである。(中村勝己・2017)つまり、①における帰結主義と動機主義の対立が前堤とされているのである。

​ 私たちが幸福を求めることは自然であり、そこに何も説明を必要としない。なぜなら、「幸福になれ」という名峰が存在しないのは、命令されなくとも幸福を求めているからである。にもかかわらず、なぜ人間が自他の幸福を投げうって真実を求めるのだろうか。例えば、末期患者が絶望すると知っていながら自分の余命を知りたいと思うはなぜなのか。そこには、幸福を求める人間の本性とは全く異なったxを導きいれるしかない。カントはそのxに理性を当てはめる。しかし、この例でいえばこのような反論がされるかもしれない。末期患者は自分の余命を知ろうとするのは知らないと不安になり、その状況から抜け出すためにするのかもしれない。つまり、不安と絶望を比較したときに絶望するほうが幸福だと思うから知ろうとするのではないかということだ。

​ そしてカントは理性を公共的に使用することについて語る。「人間の理性の公的な利用はつねに自由でなければならない。理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。」『啓蒙とは何か/永遠平和のために』なぜ理性の公的な利用は自由でなければならないのか、また人間に啓蒙をもたらすのか。ジェームズ・ボーマンはまず、公共性とはコミュニケーションの前提(観衆が恣意的に限定されていないとき)であり、人数、実際の範囲のことではないことを述べたうえで、次のように述べる。

​ 『カントと永遠平和』

 第一に、公共的理由が向けられる観衆は、範囲が限定されておらず、全員がその中に含まれる。公共的理由は理解できるように定式化しなければならないだけでなく、市民全員が自らの判断力を、カントが言うように、「妨害も邪魔立てもなく」用いることを容認しなければいけないのである。第二に、より重要なことなのだが、理由に説得力があるのは、観衆と話し手の間で行われるコミュニケーションに何も制約がない場合、つまり、自由で平等な参加者が、賛成か反対かを自由に表明できる対話に限られる。こうした、より強い意味における理性の公共的使用は、対話的であるというわけではなく、反省的でもある。つまり、コミュニケーションにおいて使用することで、理由と論証過程の両方における限界と制約をさらけ出し、その判決に疑いを投げかけることができるのである。

​ ここで、なぜカントが公表性と啓蒙が相互に結び付くと主張したのか、明らかになる。その理由はコミュニケーション上の制約がないことで政治対話が自己批判的になれることにあったのである。つまり、理性の公的な利用とは、成熟された人間のように自己批判的になれることである。そして、そのことにおいてのみ啓蒙することができるのである。

補足)啓蒙とは本来の意味では「一般の人々の無知をきりひらき、正しい知識を与えること(日本国語大辞典)」とあるが、カントは少し異なった定義づけをする。カントは啓蒙とは何かについて次のように語る。「それは人間が、みずから招いた未成年状態から抜け出すことだ未成年状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。だから人間は自らの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気を持て(Sapere aude)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気を持て」ということだ。」

 そして啓蒙できる人は「自らの力で未成年状態の〈くびき〉を投げ捨てて、だれにでもみずから考えるという使命と固有の価値があるという信念を広めてゆき、理性をもってこの信念に敬意を払う精神を周囲に広めていくのだ。」『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他三篇』

​ カントは永遠平和を唱える中で、一つの世界共和国という積極的理念を捨て、その代わりに戦争を防止し、持続していきながら、たえず拡大していく連合という消極的な代替物を提唱した。なぜ1つの世界共和国は永遠平和の理念にふさわしくないのか。ジェームズ・ボーマンは消極的代替物について次のように説明する。

​ 『カントと永遠平和』

​ つまり、カントの言う理性理念とは全くちがって、平和に向けた公共的な状態をもたらす単なる手段にすぎず、諸国民が似たように組織され、統治されてはじめて実効的なものとなるものである。カントの世界連邦主義という次善の解決策は、政治権威をひとつの最高権威のなかにすべて統合してしまう代わりに、主権を持ち法的に構成される権力の多元性という事実を容認する。

 ジェームズ・ボーマンはカントの平和思想を批判するのだが、むしろ「権力の多元性を容認する」ということが重用なのではないか。

 ジェームズは言語的、文化的、宗教的なちがいによる人々の間での不和、文明化された人々がされていない人々にする扱い方、交戦権を制限しようとする意志の欠如が「法的に拘束力のある平和という、誰にでもわかりそうな期待に背く結果をもたらしている」という。このことは、1つの世界共和国の最高権力者が、言語、文化、宗教の異なったものを押さえつけるということを意味しているだろう。つまり、権力をそぎ落とされたものが、最高権力者に法的に拘束されることは自明のことで、その意味では潜在的に戦争が起こっているのである。

 しかし、カントの消極的代替物を認めたとしても、そのカント理念によって結成された国際連合はあまり機能していないように思われる。なぜそのようになってしまったのか、マーサ・ヌスバウムは次のように語る。

​ 『カントと永遠平和』

​ 問題はカントがグローバルな統治能力を連合に付与しなかったことにある。だが、国家間の暴力状態を解決し、世界市民法という革新的な理念を実施するためには、こうした能力が必要なのである。

 つまり、カントは軍備全廃という理念を実現させることを急いだために連合に軍備を置くことはしなかった。そして、そのせいで世界を統治する術も持たないままなのである。

 世界を統治するためには軍備が必要なのであるが、ただ配置するだけではカントの理想とする軍備全廃という理念を実現させることはできない。そこで、私は軍備の二段階の揚棄というものを提唱したい。揚棄とはへーゲルがそのその言葉の独特の意味を気に入った言葉である。揚棄とはその言葉の中に拾うということと捨てるということの二つの意味が含まれている。例えば、日常でスーパーマンのように飛ぶことはできないので、その代わりにゲームでスーパーマンのように飛ぶということは、ゲームでスーパーマンのように飛ぶことでその欲求を実現し(拾い)、現実世界でスーパーマンのように飛ぶという欲求を捨てるのである。この揚棄という概念を使って、国際連合の理念に足りなかったものを埋めていきたい。次のものが軍備の二段階の揚棄である。

 軍備の二段階の揚棄

 ①国家の軍隊を世界軍隊へ

 ②世界軍隊を慈愛活動家(フィランソロピスト)へ

 国家軍隊にあてたお金を世界軍隊へ、そこへ完全に移行できれば、次のステップである世界軍隊から慈愛活動家へお金を回すことができる。もはや世界軍隊となり、敵がいなくなれば、軍隊は次第に衰えていくだろう。しかし、その軍隊に変わらずお金を投資することで国家に軍隊を作る能力を失わせることができる。さらには敵がいなくなった軍隊は何もしないわけにはいかず、災害救助や地域紛争を解決する部隊へと変えることができる。そして、世界軍隊という名目を保たせることで、国家には戦争をさせない抑止力を持つことができる。つまりは、国家の軍隊を捨て、世界軍隊を拾う。また、世界軍隊を捨て慈愛活動家を拾う。そのような二段階の揚棄を経ることで、限りなく平和な世界が実現されるのではないだろうか。

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