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記憶とイマージュ

 

 このレポートは3章で構成する。第1章ではイマージュとは何かを明らかにし、記憶や過去を論じるための土台を作り上げる。第2章では記憶、スヴニールとメモワールのあり方について明らかにし、ベルクソン哲学の論理を大きく築き上げていく。第3章ではイマージュと記憶のあり方からベルクソン哲学の世界観をまとめ、私の解釈を加えていく。

ベルクソンの世界観は実在論や観念論に縛られることなく、しかも合理的に展開されていく。さらにその先では、時間や精神と身体のあり方を明らかにさせるまでにいたる。その世界観をひとつひとつ見ていきながら、イメージとして想像できるまで論じていきたい。

 なおこのレポートは『物質と記憶』熊野純彦訳(岩波書店)から引用する。

 

 

  第1章 イマージュとは何か

 

 ベルクソンにとってイマージュとは、おそらく宇宙のあり方であるだろう。それほどまでにイマージュは重要視されるものであるし、それから論じなければいけないように思える。

 『物質と記憶』において、イマージュは独特なすがたであらわれる。それはイメージはもちろんのこと、知覚や表象とも区別されなければならない。もっとも重要なことはそれが内的な精神にあらわれるだけでなく、外的な物質にも適応されるもので、ベルクソンに言わせてみれば、もはや内的や外的の区別など必要のないものである、ということだ。

 私たちが知覚するのは実体ではない。あらゆるものは、ひとつもかけることなく質として知覚される。例えば、視覚からは色や凹凸(レリーフ)という質、また触覚からは硬さといった質が与えられるのである。私たちが知覚するのは、リンゴという実体からではなく、あくまで質でしかない。このような質がベルクソンにとってイマージュとしてあらわされる。つまり、私たちが物質と呼んでいるものは質でしかなく、それは言語によってあとから実体化するだけで、本質的に物質は他の物質と分断されることはない。ベルクソンの考えるイマージュ世界は物質が数的に分断されているのではなく、それが色のように混ざり合っているのだ。この質的な世界は物質であれ、そこに個々の実在性を与えることはない。そしてもうひとついうならば、この質は、あらゆる感覚が受け取る質を凝縮したものであり、私たちが受け取るのはそれのある一部分にすぎないのである。ベルクソンは次のように言う。

 

  • すなわち、私が物質と呼ぶものはイマージュの総体であり、物質の知覚と呼ばれるものは、このおなじイマージュが、特定のある種のイマージュ、つまり私の身体の可能な行動に関係づけられたものである。

 

 私たちの色彩能力には限界があるが、物質にはそれよりも多くの色彩をふくんでいるかもしれず、イマージュは私たちの能力を超えた把握されるあらゆる色彩に対応しているのである。このようにイマージュをとらえると、知覚されたイマージュが観念となんら変わりないと思える。しかしベルクソンはこのような質のなかにあの色は美しいといった感覚は含まれていないと主張する。そしてベルクソンは知覚と感受について明確に区別する。知覚について次のように述べる。

 

  • 知覚はまず物体の総体の内にあり、そこから少しずつ限定され、じぶんの身体を中心としてえらびとる。

 

 ベルクソンにとって知覚とは、じぶんのなかで起こるできごとではない。それは外界に内在している質であり、そこから私たちにとって有用なものがえらびとられ、じぶんの身体へと向かってゆくのである。反対に、感受とはじぶんの身体の内部にある。ベルクソンは次のように述べる。

 

  • 身体はたんに外部からの作用を反射するにとどまるものではない。身体とは闘うものであり、かくてその作用のなにほどかを吸収する。ここに感受の起源が存在することになるだろう。

 

 感受は外的な作用を吸収し、それに抵抗するときに生じるものである。ベルクソンは歯の痛みを例に出す。歯の痛みは生命の危機には及びそうもないのにかかわらずものすごい痛みになる。反対に生命の危機にかかわるような病気にはなんの痛みを感じない場合もある。これは痛みが生命の危機に比例して強弱が変わるのではなく、外的な作用に対して抵抗する努力によって変わっている、ということだ。つまり、感受とは外的な作用と闘うための内的な作用なのである。ここに知覚は外側から、感受は内側からの作用であると確認できる。

 最後に、このイマージュ世界を外側と内側にわける「特権的イマージュ」から知覚と感受をより深くほりさげてみる。これは身体のイマージュである。というのも、この世界が質的であり、イマージュであるならば、私の身体もイマージュとなりうるからだ。身体のイマージュは知覚と感受の向かう終着点である。まずは知覚と身体の関係についてベルクソンは次のようにいう。

 

  • 私たちの知覚によって描きだされるのは【…】じぶんの身体が他の物体に対しておよぼすことのできる可能な作用である。

 

 しかし、これが可能な作用であるには身体とその知覚とに距離がなければならず、反対に距離がない知覚については次のようにいう。

  

  • これに反して、距離が、それらの物体とじぶんの身体とのあいだで減少するのに応じて、可能な作用には現実的な作用へと転じる傾向があり、作用は、距離がちいさなものになるにつれて、それだけ切迫したものとなる。さらにこの距離がゼロとなるとき、いいかえれば知覚されるべき物体が私たち自身の身体である場合には、潜在的作用ではなく、一箇の現実的な作用を知覚が描きだしているのだ。

 

ここでベルクソンは身体というより触覚に特権を与えているように思える。つまりは、触覚がゼロ地点となり、知覚と感受の接合点となるのである。しかし、視覚が潜在的にとどまり感受されないというのには反論の余地があるように思える。

私たちの身体によって潜在的であった質が現実的な作用となり、その作用に対し自分に有用なかたちで反抗する。その作用を吸収し、はねかえす力が感受となるのである。

 

 

  第2章 メモワールとスヴニール

 ベルクソンは記憶をメモワールとスヴニールという2つのあり方で論じている。そして、この2つのあり方を把握しなければ、過去の自動保存を理解することはできない。過去の自動保存とはその名のとおりであり、ベルクソンも主張するところである。ベルクソンはメモワールとスヴニールについてもっとも簡潔なしかたであらわす。

 

  過去はふたつのことなったかたちで残存する。すなわち、1運動機構においてであるか、2独立な記憶(スヴニール)においてである。

メモワールは「運動機構」、すなわち脳や中枢神経に保存されるものである。ベルクソンはこの2つの区別を、朗読に例をとり、説明してゆく。私たちは文章を何度も反復することによって、その文章を暗記してゆくようになる。この動作が私の脳に過去を保存するのであり、つまりこれがメモワールなのである。私たちが暗記を終えたとき、「それはスヴニールとなり、私のメモワールに刻みこまれた」といわれる。これはベルクソンがまず、記憶が世界に保存され、その記憶が私の脳へと有用なかたちで保存される、ということである。ベルクソンの哲学における記憶は大きくこの2つにわけることができる。さらにスヴニールについてみていきたい。この世界の記憶は純粋スヴニールと人為的なスヴニールにわけることができる。ベルクソンは後者のスヴニールを「自動的な運動の閉鎖的システムのなかに貯蔵されて」いると語っている。もしスヴニールが独立であると述べるならば、閉鎖システムに、いわば縛られているような状態であるはずがない。前者のスヴニールはなににも縛られていない状態で存在しているのである。ベルクソンは続けて、「そのシステムが継起するのは〔つねに〕同一の順序においてのことであって、それは同一の時間を占めている」と述べている。このことは、人為的なスヴニールが固定化されていることを意味するのである。

人為的なスヴニールとは対極である純粋スヴニールについてみてみる。純粋スヴニールはこれとはことなり、連続的な性質をふくむことになる。私たちはつぎに、純粋スヴニールについて論じていく必要があるだろう。純粋スヴニールとは、次のようなことである。

 

  • 純粋記憶は、これに対して、私の身体のいかなる部分とも関係がない。たしかにそれは感覚を生みだして、物質的なかたちを取るけれども、正確にその瞬間に記憶(スヴニール)であることをやめ、現在のことがら、現勢的に生きられることがらという状態へと移行する。

 

つまり純粋スヴニールとは、現勢化せずに存在し、いわばイマージュ世界に沈みこんでゆく。人為的なスヴニールが閉鎖的であるならば、純粋スヴニールは開放されたものである。過去は自動保存されるが、その保存先は質的世界である。人為的なスヴニールは常に現勢化しながらイマージュ世界から孤立する。これが人為的スヴニールと純粋イマージュの本質的な区別である。次に、その独立性については第3章で述べることにする。

 

 

 第3章 ベルクソン的世界観の解釈

 

 ベルクソンはイマージュという質的世界から精神、物質を見てとった。それは精神と物質が合一することで、観念論と実在論の一致をはかったものである。ベルクソンもそのことには、「実在論も観念論もほとんどたがいに一致している」と述べている。このことから、ベルクソンの立場は半実在論というよりもむしろ実在=観念論というべきではないだろうか。どちらも互いの性質を相殺することなく、共存することができる。

 ベルクソンの世界とはひとつの質的な世界である。そしてその世界では物質を個々に分割することは人為的には可能であっても、本質的には不可能なのである。そのことで、世界は一つであるということしかできない。ベルクソンは次のように言う。

 

  • 物質を絶対的に輪郭が限定された独立な物体へと分割することは、ことごとく人為的な分割である。

 

この人為的な分割というのは、数学的なとらえ方で世界を見るときに作用される。例えば、

リンゴの輪郭を見て、それを一つとして数的に把握することは便宜的には可能である。しかし、イマージュ世界においてはあらゆる事物が質である以上、新たな実体を生じさせないように分割することはできないのである。この分割不可能性からみちびかれるのは、数的な足されることにおいて成り立つ世界ではなく、質的な混ざり合う世界なのである。

 混ざり合う世界というのは、りんごのような事物が混ざり合うという意味だけではない。

世界は持続によって継起しているが、そこでは過去がたえず生まれる。つまり、イマージュ世界において過去はつねに現在と混ざり合っている。継起するにしたがい、世界はより濃い質へと変化してゆく。その質のうちには過去が保存されており、私たちはそこに過去を見いだすのである。現在と過去の関係は色と同じである。紫は赤と青によって生み出されたものであるが、紫はそれ自身のなかに混ざり合う前の自分が見出されるのである。だから、過去が保存されるといっても、それはどこかにあるのではなく、それ自身のなかにある。だからタイムマシンで過去にいけなくても、過去は「ある」といえるのである。

序章 

 

 このレポートはベルクソンの『物質と記憶』を考察したものである。それにあたりベルクソンの説明を簡単にしたいと思う。ベルクソン(1859~1941)はフランスの大思想家といえる。彼は1927年に哲学者には珍しくノーベル文学賞をとっている。それほどに彼の著作は(差はあるけれど)明確で読みやすいものになっている。『思考と動き』はベルクソン哲学がとても簡潔に書かれていておもしろい本になっている。

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