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​イマージュと記憶 -再・再修正版-

​目的

 『物質と記憶』を読み解くことでベルクソンの時間論を根本から理解できるように試み、ベルクソン研究における問題を浮かび上がらせる。

​序論

 『物質と記憶』においてイマージュの議論は大きなウエイトを占める。全4章から成るこの著作のすべての章にイマージュという言葉が使われており、イマージュという観点から身体と宇宙の関係性や記憶の所在、また形而上学的な問題まで幅広く扱われる。本論では第1章において、イマージュを分析し、概略をまとめる。イマージュという土台から、身体という特異な存在を考える。その特殊なイマージュから、ベルクソンにおける知覚と感受の定義にふれ、第2章の記憶の所在に移っていく。

 第2章では、過去が人間の認識の外に存在しているのか、仮に存在するとして、過去はどのように存在しているのかという2つの問いを軸にして、記憶と知覚の関係性を見ていく。

 第1章  イマージュとは何か

​ イマージュとは何か

 イマージュと聞くとイメージを連想するかもしれないが、ここであつかうイマージュとイメージとは似ているようで異なる。イメージとは私たちの頭の中で浮かび上がってくる像である。しかし、イマージュは頭の中にあるだけではなく、ましてそれが内的な精神にだけあらわれるものでもない。イマージュは外的な物質にも適応されるもので、ベルクソンに言わせてみれば、もはや内的や外的の区別は必要がないものである。イマージュとは頭の中のものが宇宙にひろがったものとして考えられ、私たちの知覚する質そのものが宇宙をあらわすことになる。例えば、ゴッホは常人とは異なる色覚(色を認識する能力)をもっていたといわれている。イメージから考えてみると、注目されるのは各々がもつ色覚であり、論点は常人とゴッホの色覚はどう違うのかとなる。しかし、ベルクソンのように考えてみるならば、そのような疑問は生まれない。なぜなら、イマージュから考えてみると、物質はどれほど多くの質をもつのかということが論点となるからだ。イメージで注目されるのはその能力であるが、イマージュのほうは質そのものにあるのだ。

 イメージすることは思い浮かぶ像を生みだすことにあるが、反対にイマージュから知覚することを考えると、思い浮かぶ像は限定されることになる。ベルクソンは次のように言う。

あなたが説明しなければならないのは、だから、どのようにして知覚が生まれるかではない。むしろ知覚 はどのようにして限定されるかである。知覚は権利じょう全体のイマージュであるはずなのに、事実上はあなたのかかわりのあるものへと還元されているからだ。

 脳はイメージをつくり出すものではなく、イマージュからある特定の質を選びとるものである。そして、脳が質をつくり出すという認識から、質は脳の中にあるものという認識が生まれてしまうのである.

 質は生みだされない

 物理学者が物質というとき、それは私たちの感覚を排除した一つの個物として思い浮かべられる。しかし、物質は私たちに感覚されるのは質である。そして、その質は、酸素と鉄の感触が異なるように、その感覚の強弱によって、ひとつのものと他のものとに差異化させられているにすぎない。そのため、物質は一つの個物として独立して存在するものではなく、質の違いによってのみ把握されなければならない。

 物理学者は人為的に(またはかりものの神の視点によって)つくりあげられた個物を脳とみなすことで精神の動きを説明しようとする。それは、物質が脳に一方的に作用して、表象を生みだしていることを意味する。しかし、ベルクソンは、質が身体におよぼす作用に対して、身体がそれに反射するということによって説明する。イマージュは作用と反作用という2つのシステムでつくりあげられている。2つのシステムというのは、一般的なイマージュと身体のイマージュという「特権的イマージュ」である。ベルクソンは次のように言う。

おなじイマージュが、同時にふたつのことなったシステムのうちに入りこむことができる。一方のシステムのなかでは、それぞれのイマージュはそれ自体として、周囲のイマージュから現実的な作用を受ける明確に規定された範囲で変容し、他方のシステムのうちでは、すべてのイマージュがただひとつのイマージュに対して、しかもこの特権的イマージュがおよぼす可能な作用を反射する、可変的な範囲において変容する。

 つまり、身体は周囲のイマージュから作用を受けると「同時に」、周囲へのイマージュへと反作用することができる。

ベルクソンよれば、宇宙がイメージであるか完全にそれを排除するかという議論は不毛である。なぜなら、イメージと物理学者が言う物質はおなじイマージュとして説明することができるからだ。身体の特権性ゆえにイメージが内部にあり、それ以外が外部にあるという考えが導き出されるが、イマージュにおいては内部や外部といった関係を必要としない。私たちが精神と呼ぶものは作用を受けた身体が可能な行動において反射することである。つまり、内には何らかのものがある必要はなく、身体はその特権においてただ宇宙に反発しているだけである。

 ベルクソンは、「同時にふたつのことなったシステムに入りこむことができる」と言う。つまり、特権的なイマージュである身体の作用とその反射は「同時に」おこなうことができる。なぜ作用・反作用は「同時」でなければならないのか。それは「同時」でなければ、身体は作用・反作用のさいに必ず記憶に頼らなければいけなくなるからだ。もし「同時」でなければ、思いだすという行為の場合にその記憶を必要となるというパラドキシカルな現象が起こるからだ。内と外という隔たりをつくり、そこにいかなる時間の経過をみとめるならば、この現象を説明できなければならない。つまり、内と外の隔たりは人為的につくられた障害物にほかならない。

​ 知覚と感受

 宇宙がイマージュとして存在するとしても、なぜ身体には特権が与えられているのかという問いには答えられない。身体の特権にはまだ謎が含まれている。

 身体のイマージュは外部からの知覚と内部からの感受によってイマージュを認識する。例えば、腕に針が刺さったとき、人は針の感触を知覚し、内側から痛みがこみあげてくる。痛みはイメージだと思われるかもしれないが、ベルクソンにとってそれはイマージュの作用の反射である。つまり、人は針から(針がもつイマージュから限定された)あるイマージュを受け取り、それに身体にとって有用となるような反応をする。感受されるものは針と同じようなイマージュとして考えられなければならない。しかも、その感受のしかたは有用であるか否かによって恣意的にイマージュの大きさが変わる。

 ベルクソンは歯の痛みを例に出して説明する。歯の痛みは生命の危機には及びそうもないのにかかわらずものすごい痛みになる。反対に生命の危機にかかわるような病気にはなんの痛みを感じない場合もある。これは痛みが生命の危機に比例して強弱が変わるのではなく、外的な作用に対して抵抗する努力によって変わる、ということだ。つまり、抵抗すれば取り除けるようなものであればあるほど、人は痛みをより強く感じるようになる。ベルクソンはこのことについて次のように言う。

身体はたんに外部からの作用を反射するにとどまるものではない。身体とは闘うものであり、かくてその作用のなにほどかを吸収する。ここに感受の起源が存在することになるだろう。こうして比喩的に語るなら、知覚によって身体の反射する力が測られるとすれば、感受が測るものは身体が吸収する能力なのである。

 つまり、身体は知覚によって針の感触という外的イマージュを反射し、それは身体の中に痛みとして吸収する。そのことによって、身体はその感受に対する努力を生じさせ、より有用な環境へと移行させる。感受と知覚は身体がそれ自身のために行動させるような機能なのである。それゆえ、それらは常に表裏一体となり、身体のためだけにうごいている。ベルクソンは、それについて「感受を欠いた知覚は存在しない」という。しかし、感受が存在することで、私たちは外的なイマージュがゆがみをもって知覚されてしまうことになる。そのため、ベルクソンは感受を「知覚にまぎれこむ不純物」とまでいう。ベルクソンは純粋知覚にこだわりをみせ、知覚を純粋なかたちで見出すために感受を差し引いて考えようとする。しかし、その過程は私たちから感情を奪うことと同じことである。つまり、身体は感受と知覚という2つの機能によって、はじめて抵抗する努力ができるのであり、片方を排除することはもう片方の機能を停止させることなのである。そのため、純粋知覚は想定上のものでしかなくなり、ベルクソンは感受を忌み嫌うのである。

 この節のはじめにあった身体の特権についての問いに戻ろう。なぜ身体に特権が与えられていたのかは、身体がそれ自体に有用になるように能力を獲得したからにほかならない。しかし、なぜ生物がその能力や宇宙に有用なものを見いだし、その能力をつかうようになったのかは明らかにならない。ベルクソンはこの問題を次のように答える。

すなわち、ひとが曙光を―それは直接的なものから有用なものへと移るみちすじを照らしながら私たちの人間的経験の黎明を告げるものだ―利用しえた、としてみよう。そのときさらに残されている仕事は、現実の曲線についてかくて私たちが認知する無限小の要素によって、曲線そのもののかたちを、それらの要素の背後にある暗がりにひろがるものとして再構成するところにある。

 つまり、「曙光」とは、身体が自身に有用なように法則を曲げようとしている「みちすじ」を身体の意識にあらわすものである。ベルクソンはその「みちすじ」を分解し、再構成することによって、さらに身体に有用なようにしようと考えている。

 しかし、はなぜ生物が「みちすじ」を発見しえたかには答えない。むしろ「みちすじ」をどのように自分のもとに変形させるかと問うているのである。この著作では感受と知覚の起源がないがしろにされている。ベルクソンとは異なる問題提起のしかたが必要である。

​第2章 過去とイマージュ

 第1章では、宇宙がイマージュとして存在していること、身体という特権によって人は感覚を表象すること、その感覚は身体の内から発生する感受と外から与えられる知覚とに分けられることを確認した。第2章では、記憶という観点からイマージュやベルクソンの時間論を説いていく。

 知覚や感受は反射や吸収といった役割を担っている。しかし、脳の運動は無機質な反応であるにとどまらず、迷うときに要する時間のように、判断する時間が含まれている場合がある。

運動機構は、行動が反射的なものである場合には〔あらかじめ〕定まっているいっぽう、随意的な行動にさいしては選択される。

 習慣であれば、無意識のうちに行動されることもあるが、いくつかの選択肢から選ぶときは過去のできごとを考慮し、最善の選択を採ろうとしている。このことは、身体のイマージュが現前するイマージュのみによって行動していることを否定している。つまり、イマージュは現在のイマージュにとどまらず、過去のイマージュとしても存在することになる。身体がほかのイマージュの作用によって反作用することから、過去と現在においても作用と反作用の関係が存在しているという仮定が成り立つ。しかし、そうであれば、過去が現在と接触しなければならない。知覚は何であるかにかかわらず、イマージュの接触が必要であるからだ。つまり、過去は現実からなくなったものであるにもかかわらず、過去が現在と同時に存在していることが必要となるのである。

記憶と知覚

 記憶は現在と過去をつなぎ合わせる媒介である。現在がなくなり、それでも過去として把握できるのは記憶のおかげである。言い換えれば、記憶のおかげで知覚は奥行きをえることができるのだ。

 人は知覚するときに、与えられたイマージュから決められた行動をただ反射するだけではなく、記憶の中から有用なものを選びとるという作業によって、その反射は奥行きを持つようになり、行動は可変的になっていく。ベルクソンはアメーバを例にとっており、「単純な意識的存在」がただ反射することによってのみ行動すると説明する。それに対し、人は記憶のおかげで知覚からの反射を分岐させながら行動している。人は記憶に頼りながら行動するので、人にとって知覚と記憶とは切り離すことができない存在なのである。ベルクソンは次のように言う。

知覚とはだんじて、精神と現前する事物との単純な接触ではない。むしろ知覚は記憶イマージュにまったく浸潤されており、記憶イマージュが知覚を補完し解釈している。

 知覚と記憶はたがいに溶け合うため、人は知覚のみ、または記憶のみで行動することはできない。じっさいに、ベルクソンはそれらが「孤立して生じることはない」という。われわれは記憶と知覚とを混同させずに、記憶を知覚の一種のように表象することはない。というのも、もし記憶をかすかな知覚と考えるならば、少しだけ触れたときのようなよわい知覚を記憶と勘違いすることもあるだろう。そう考えると、10年前に骨折したときの痛みと、いま肌をつねる痛みは同じ痛みだといえることになる。しかし、人はそのように間違えることはない。知覚する痛みと記憶の痛みは比較することができないゆえに、知覚と記憶には「本質上の差異」があることになる。

 ベルクソンは知覚との対極に「純粋記憶」という概念を導入する。これは、知覚が現在に起こっていることに作用するのに対して、潜在的なものとして作用する。潜在的なものは、私たちにとって現に作用することはない。その意味で、潜在的とは無用なもの関係のない無用なものである。人は知覚によって有用なものを選びとるが、「純粋記憶」は無用なものとして待機している。記憶は「純粋記憶」から「物質的なかたちを取る現在の感覚」(身体イマージュ)へと汲みとられて、知覚によって反射する。記憶とはこの両極の動きの中で生まれるイマージュなのである。たとえば、音楽を聴くとき、私たちは常に音を知覚しながら、1音節前(あるいは曲が始まるときから)の音の「純粋記憶」からも刺激を受ける。「純粋記憶」が音楽に幅を持たせることによって、私たちはただの音としてではなく、音色としてそのイマージュを受けとる。「記憶のイマージュ」は知覚と「純粋記憶」とのつながりによって生まれるのである。

 しかし、このようなつながりはどのように生まれるのだろうか。ベルクソンの「純粋記憶」には過去が保存されているという意味が含まれる。現在となくなったはずの過去が同時に存在しているため、ここでは2つの論点が浮かびあがる。1つは、過去は存在しているのかということであり、もう1つは、仮に過去が存在しているとして、どのように過去が存在しているのかということだ。

​ 過去と現在

 「記憶のイマージュ」は「純粋記憶」と知覚とのつながりであるとともに、現在と過去のつながりでもある。「純粋記憶」が無力なものであったのと同じように、過去も無力なものであり続ける。現在にとって過去とは使い捨てられたものにほかならない。

 私たちは常に現在を過去へと使い捨て、未来へと延びていく。そのため、「私たちが現在と呼ぶのは流れさりつつある瞬間である」。この「瞬間」とは数学的な点のようなものではなく、便宜的に設けられた理念の産物である。つまり、現在はただ過去と未来との変わり目という役割を持つだけであり、それは両者を切り離すことはない「不可分な境界」なのである。現在とは過去から未来へ移行するときの変わり目にすぎないため、私たちは現在すらも存在するものとして定義することはできない。ベルクソンは次のように言う。

現在があると定義すれば、それは恣意的な定義というものである。じつは現在は、たんに出来しつつあるものにすぎない。現在の瞬間は、かりにあなたがそれを不可分な境界と考え、それによって過去と未来が分離されるものと理解するならば、これほど存在からほど遠いものはない。この現在をまさに在るべきものと考えるなら、現在はなお存在していない。たほうそれを存在しているものと考えるとき、現在はすでに過ぎ去っている。

 現在はたんに理念にすぎない。実際に、私たちが知覚するさいには、一定の時間が必要とされる。たとえば、光を知覚するのには、何兆回もの振動が私たちの眼に入らなければならない。この振動には少なからず時間が経過しているが、この振動のどこに現在を見いだせばいいのだろうか。もし現在の存在を認めることができなければ、現在は理念にすぎないものとなる。知覚するさいの何兆回もの振動には、一定の時間が含まれている。一定の時間が進んでいると考えるとき、そこには過去と現在と未来が存在するため、現在には時間の幅(横の長さ)が含まれていることになる。しかし、一定の時間が進んだものを現在と呼べるのだろうか。そこで、知覚するときの何兆回もの振動のなかの100億回目を現在であると仮定する。そうすると、その前の振動はすべて過去になり、そのあとの振動はすべて未来になる。複数の振動に時間の幅が含まれているのは明らかだが、100億回目の振動の中にも時間の幅は存在する。つまり、その振動の頂点を現在であるとすると、その前の振動の幅はすべて過去となり、そのあとの振動の幅はすべて未来となる。(その頂点にも、2次元の点であらわされるなら、横の幅を持つことになるので…。そして1次元の点であれば理念にすぎないので、現在は理念となる。)時間をミクロな視点で見ていくなら、知覚には純粋な現在を見つけることはできない。このようにして、現在は理念にすぎないものとして証明される。

 このような証明から現在が実際には存在しないことが明らかとなり、ベルクソンは次のように結論づける。

私たちはじっさいには、過去しか知覚することはできない。いっぽう純粋な現在は、過去が未来へと食いこんでゆくとらえがたい進行なのである。

 現在は「事実じょう」存在するものではない。知覚とは過去において行われるものであり、現在は進行という現象のみによってあらわされる。現在は過去における知覚から未来へと繰り延べられていくことで、私たちに現在の姿があらわれてくるのである。つまり、現在とは過去の知覚によって未来へと行動していく、「感覚―運動的」なシステムのうちにあるのだ。

 私たちの身体は知覚することで、純粋記憶からイマージュの作用を反射し、行動へと繰り延べられる。現在とは「権利じょう」存在している理念であり、この過去から未来への移り変わりを指すのである。身体イマージュはその特権性ゆえに現在というシステムに置かれている。しかし、身体イマージュはあくまでイマージュであり、記憶もまたイマージュである。つまり、イマージュはイマージュを内包することはできない。それはイメージのなかにイメージを内包することができないのと同じだ。だから、記憶する脳でさえイマージュであるため、そのなかに記憶のイマージュを内包することはない。ベルクソンは、知覚が過去のものであることにふれた後に、身体と過去の関係について次のようにまとめる。

このあらたな観点からみられるなら、じっさい私たちの身体とは、じぶんの表象のうち、変わることなく再生しつづける部分以外のなにものでもない。それは不断に現前する部分であり、あるいはむしろ、すべての瞬間にちょうど過ぎ去ったばかりの部分にほかならない。この身体はそれじしんイマージュであるかぎり、イマージュ群を貯蔵することはできない。それはさまざまなイマージュの一部をかたちづくるものであるからである。

 つまり、脳はイマージュであるため、記憶を脳の中に保存することはできない。脳はただ純粋記憶をどこからか取り出すことしかできない。

 知覚は過去からも作用を受けるため、必然的に過去が存在することになる。過去は存在するのかという第1の疑問には、過去は存在するという結論となる。しかし、過去がどこに、どうやって存在しているのかという第2の疑問には、いまだ答えることはできない。

 習慣としての記憶

 ベルクソンは、過去が「潜在的である」と表現する。「潜在的である」とは、つまりその場には存在していないが、なにかの反応があれば、現前される可能性があることを指す。1章や2章前半で、知覚と過去の関係性を見てとることができたと思う。つまり、過去が「潜在的である」下地はできている。あとは、「潜在的である」という状態がどのような状態であるのか、さらに深く掘り下げる必要がある。

知覚が純粋記憶から影響を受けて、身体は行動する。そこにはある種のメカニズムが存在している。それは習慣として機能しているものだ。例えば、朝起きたらすぐに歯を磨くという習慣があるとする。その習慣の中では、朝起きたら歯を磨く、とプログラミングされている。無意識のうちに身体が洗面台のまえにいたという現象は、そのように身体がプログラミングされていることが原因である。

 身体をメカニズムの中に置くことは、身体が「潜在的」なものに感化される行動であることと、表現において変わりないはずだ。なぜなら、その場に存在することはなかった行動が、ある刺激によって反応するのであれば、それは「潜在的」に待ち構えていたことになるからだ。つまり習慣とは、このメカニズムのうちに身体を置くことであり、「潜在的」に身体に存在している記憶なのである。

 しかし、ベルクソンは習慣が真の記憶ではないという。というのも、習慣としての記憶は「私たちの過去の経験の記憶を演じるけれども、そのイマージュを喚起するものではない」からだ。そして、そのような記憶は「過去の行動の蓄積された努力が象徴的に指標される」にすぎないからだ。

 真の記憶とは「場所」や「日付」が与えられているものだと定義する。つまり、ベルクソンは4次元的な空間があることを前提としている。ベルクソンが想定するのは、空間の中に、人間が認識するかにかかわらずに、存在している過去である。そのような過去を証明させるには、身体がどのように4次元的な空間から、過去を取り出しているかを証明させる必要がある。ベルクソンの時間論は、脳科学の視点からもアプローチする必要があるはずだ。

​まとめ

 ベルクソンはイマージュという質的な宇宙から精神や物質を考えた。イマージュとは精神と物質を合一させることで、観念論と実在論の一致をはかったものである。ベルクソンもそのことには、「実在論も観念論もほとんどたがいに一致している」と述べている。

 ベルクソンの想定する宇宙とはひとつの質的な宇宙である。そして、その宇宙は物質を個々に分割することは人為的には可能であっても、本質的には不可能なのである。ベルクソンは次のように言う。

物質を絶対的に輪郭が限定された独立な物体へと分割することは、ことごとく人為的な分割である。

 この人為的な分割というのは、数学的なとらえ方で世界を見るときに作用される。例えば、リンゴの輪郭を見て、それを一つとして数的に把握することは便宜的には可能である。しかし、イマージュとして存在する宇宙はあらゆる事物が質である以上、新たな実体が生まれるために、分割することはできないのである。この分割不可能性からみちびかれるのは、数的な足されることにおいて成り立つ宇宙ではなく、質的に物体が混ざり合う宇宙なのである。

 混ざり合う宇宙というのは、りんごのような事物が混ざり合うという意味だけではない。宇宙は持続によって継起しているが、そこでは過去がたえず生まれる。つまり、イマージュとして存在する宇宙には過去はつねに現在と混ざり合っている。継起するにしたがい、世界はより濃い質へと変化してゆく。その質のうちには過去が保存されており、私たちはそこに過去を見いだすのである。現在と過去の関係は色と同じである。紫は赤と青によって生み出されたものであるが、紫はそれ自身のなかに混ざり合う前の過去が見出されるのである。脳はどのように現在を分離し、過去を取り出すのか、脳科学的なアプローチも必要なのだろう。

〈参考文献〉

 

ベルクソン 著 熊野純彦 訳 『物質と記憶』(2015)

檜垣立哉 兼本浩祐 村山達也 カミーユ・リキエ(天野恵美 訳) 藤田尚志 バリー・デイトン(木山祐登 訳) 清水将悟 平井靖史 永野拓也 太田宏之 マイケル・R・ケリー (山根 秀介 訳) ジャン=リュック・プチ(原健一 田村康貴 訳) 三宅岳氏 ユリア・ポトロガ (持土秀紀 訳) 増田靖彦 著 『ベルクソン『物質と記憶』を診断する 時間経験の哲学・意識の科学・美学・論理学への展開』(2017)

ポール=アントワーヌ・ミケル(米田翼訳) ジョエル・ドルボー(木山裕登訳) 藤田尚志 合田正人 スティーヴン・E・ロビンズ(岡嶋隆佑訳) 河野哲也 檜垣立哉 セバスチャン・ミラヴェット(山根秀介訳) 平井靖史 バリー・デイントン(岡嶋隆佑訳) 岡嶋隆佑 伊佐敷隆弘 エリー・デューリング(清塚明朗訳) 三宅岳史 郡司ペギオ幸夫 エリー・デューリング ポール=アントワーヌ・ミケル(藤田尚志訳)  著 『ベルクソン『物質と記憶』を解剖する ―― 現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続』 (2016)

中村昇 著 『ベルクソン=時間と空間の哲学』 (2014)

檜垣立哉 著 『ベルクソンの哲学 ―生成する実在の肯定』 (2000)

中島義道 著 『「時間」を哲学する』 (2012)

アウグスティヌス 著 山田昌 訳『告白』第11巻12章~31章 (2014)

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