Haruki Takeda's philosophy
私神論(ししんろん)
「もう神はいない」「世界を作り出したのは神ではない」「現代の科学がそれを解き明かした」「神を信じるのはばかげている」と日本中に限らず、世界中のあらゆる学問分野で、このようなことが言われている。
では、何千年前から信じられてきた神とは一体何だったのか。この記事では、過去の神の議論、神と〈私〉の考察からその問いに答えていきたい。1章では過去の神の議論を通して、神とは何かについての理解を深め、2章では神と〈私〉の関係について述べる。さらに3章では神と〈私〉の関係を発展させ、キリスト教の三位一体説を新たな視点から考察する。4章では宗教とは何かを聖典、儀式、教団という3つの観点から見ていき、私たちと宗教のあり方を考える。
第1章 神の議論
私たちは神についての議論を無意味に感じてしまう。それは科学の発達で、様々な説の誤りが暴露され、宗教への不信感が抱かれてきたからであろう。しかし、それは宗教への不信感であって、神への不信感とは異なる。というのも、私たちは超自然的な神の存在を、そして宇宙の始まりにおける神という不可解な存在を信じなければならないからである。私たちは無から有へ創造するという神の業を、ビッグバンという名前に変えることは出来ても、ビッグバンですらそれが起こった原因が必要であり、ビッグバンが宇宙の始まりということはできず、その無からの創造を否定することも証明することも出来ない。私たちは無からの創造がどのようであるか知ることはできず、ただ恐怖するしかない。そして人間はその恐怖と引き換えに神をつくった。しかし、神がどのように、何からつくられたのか私たちは疑問に思われることはない
この世には神の存在を証明できる証拠はないし、信仰や直観を用いてしか神を感じることは出来ない。しかし、プラグマティズム(利益を好む人たち)には神を受け入れられてきたという歴史もある。彼(女)らは神は幻想と考えながら、気分が晴れるとか教養だからといって、信仰することを肯定する。さらには、「神を奪うことは幸福を奪うことと同じだ」という。もし、プラグマティズムに反論して、「いや、それでも神はいないんだ」といえば、その人はやさしさも常識も無い人とレッテルを貼られるだろう。しかし私はプラグマティズムに頼ろうとは思わない。なぜなら、問いへの答えが論理的解答から道徳的解答にすり替わっているからだ。神は存在するのかという問いに幸せになるから存在するといっても無意味であるだろう。
では、神について理解するにはどうすればよいのか。理解のためには、神と「自由」、神と「信仰」といった個別の関係を見ていくことが必要である。そこで、神と「自由」「信仰」の過去の議論を見ていこうと思う。
神と「自由」
私たちにとって自由とはなくてはならないものだし、「あれや、これや」指示されるのもストレスがたまるだろう。今の時代、自ら行動することがよいこととみなされる中で、神は私たちから自由を奪い去る。なぜなら、神は全知全能であり、私たち人間はその支配下に置かれるからだ。つまり、何でも出来る神が人間に「あれやこれや」指示していることになる。例えば、神は次の瞬間、お茶を飲もうとすることや今日はバスではなく、徒歩で帰ろうとすることも知っている。もし、親に今日はどこへ行くのかとか今日は何を食べるのかということを全て知られていたら、その子どもには自由がないだろう。では神をプライバシーの侵害で訴えるべきなのか。
モリーナは人間に自由があることを前提とした上で、神は人間のことを知っているのではなく、人間の自由意志を予知すると主張した。モリーナによれば、神はあらゆるシュミレーションの結果、人間の行動を全て予知できる。例えば、雨の日は外出する人が減るとか、ソーセージとビールが好きな人の海外旅行の目的地はドイツになるというようなことを既に知っているのではなく、予知しているということだ。確かに、私たちには外出するべきか、どこの国に行くのかという選ぶ自由がある。ただ雨だから外出したくなく、ソーセージとビールが好きだからドイツに行くのだ。また、親の例で確認すると、親が子どもの習慣を知っていて、火曜日のお昼に友だちの家に遊びに行っていることを知っているとしても、友だちの家に遊びに行くのは子どもが決めたことであり、その点において、子どもは自由である。しかし上枝美典(2010)は『神という謎』でモリーナに疑問を投げかけた。
自由の本質が「決まっていないこと」から「自分で決めること」へ、いわば客観的な自由から、主観的な自由へ変化したことは、何を意味するのだろうか?
p.129
上枝は自由を主観的な自由と客観的な自由に分けた。そして、モリーナは自由を「自分で決めること」(主観的な自由)に限定し、「決まっていないこと」(客観的な自由)を無視していると指摘した。つまり、自由とは2つあり、前者はどこへ行こうか、何を食べようか決める自由であり、後者はどこに行こうか、何を食べようか他者から決められていないことであるという。後者の自由には「知っている」「予知する」など、どの時点からでも、その行動が決定されていれば自由はないという意味が含まれている。つまり、神が「知る」ということには、未来も過去も関係がないのである。モリーナが「知っている」という言葉を「予知する」という言葉に置き換えたとしても、同様に神は「知る」のである。
人間は主観的な自由は手に入れることが出来るかもしれないが、完全な自由は手に入れることが出来ないかもしれない。神と人間の自由の議論これで終わりというわけではないだろう。まだこれからも議論されるはずだ。全ての人が納得できる答えではないのだから。
神と「信仰」
そもそも信じるとは一体何なのだろうか。信じることを知ることと対比させて考えてみたい。何かということを知っているのであれば、それを信じる必要はない。なぜなら、それは確信に基づいているからである。たとえば、私たちは地球が丸いことを知っている。それは信仰ではなく知識として私たちは認識しているだろう。それは人類が宇宙へ飛び出し、そのことを確認したからである。しかし、地球が丸いということは本当に知識なのだろうか。信じるという言葉の対義語には疑うという言葉が入る。信じているからこそ疑うのであり、その点で地球が丸いということも知識ではなく、信仰なのではないか。確信に基づいた知識ですら本当に地球は丸いのかと問うことができる。私たちが地球から宇宙へ飛び出したように、宇宙から新しい地平へ飛び出すことができるのではないか。つまり、いくら実験や観察に基づいた知識であっても信仰の枠組みからは出ることはできないし、信仰であるからこそ私たちはそれを疑い、発展させていけるのではないか。
神を科学と対比させるのではなく、同じ信仰としてみるとき、宗教と科学はどちらが正しいかとか、どちらが劣っているかということもできない。
さらに理解を深めるために、もう一度、上枝美典の『神という謎』を見てみたい。
p.224
「不条理ゆえに我信ず」という言葉があるように、理性的に考えたら考えたらおかしなことが信仰の次元では受け入れられるべきとされ、逆に、合理的だと思われることが信仰のレベルでは否定されることがある。
賭け事をするとき、もし配当が同じならば、普通は高い確率のほうを選ぶだろう。それが合理的な考え方であるが、ある者が「今回は低い確率のほうがあたるだろう」と根拠のない予想をして選んだならば、その者は理性的な判断ではなく、一種の信仰によって判断したことになる。
上枝は理性と信仰を対比させて、明確な根拠がある場合には理性的な判断とし、それがない場合には信仰とした。上枝は経済を例に挙げ、円安のような理由で考えるときには理性的な判断、反対に神頼みで考えるときには信仰とした。この対比で考えるとき、神を信じるということは理性的ではないということになろう。しかし、本当に理性的な信仰はないのだろうか。たとえば、先のプラグマティズムの考え方を思い出してほしい。熱心な信仰者は認めないであろうが、幸せになるために信仰するということは理性的な信仰ではないだろうか。つまり、宗教を信仰することは決して非合理的な判断ではないのである。
この章では神と「自由」、神と「信仰」という2つの議論を見てきたわけだが、ここで一貫していたことは、神は私たちのことを「知る」存在であるが、私たちは神のことを何も知らないということである。しかし、私たちは神について知ることはできないのだが、神について理解することはできる。たとえば、宝くじを買うとき、どの宝くじが当たるかを私たちは知ることは出来ないのであるが、宝くじの当たる確立は何%であるか、つまりその宝くじはどのような構造になっているかを理解することはできる。そのようにして、神という概念を分析することによって、神とは何かを理解することはできるはずだ。
第2章 〈私〉は神である
この章では、存在という概念を〈いる〉と〈居る〉の2つに分けて考え、この2つの要素から〈私〉と神についての関係性を見ていく。
一通り説明が終わった後に、神の全能という性質について考え、さらに理解を深めていく。その後、〈いる〉と〈居る〉の2つの要素から応用して、なぜ死者を拝めるのか、なぜ死後は無なのかという問題を考えていく。そしてなぜ神は〈私〉であるのかに答えていきたい。
〈いる〉と〈居る〉、もしくは〈ある〉と〈在る〉
ここでは、存在するということを自明のものとし、そのことを疑わない。むしろ、存在自体を前提とし、どのように存在するのかという存在の構造を問いたい。
先に存在を〈いる〉と〈居る〉に分けるといったが、そのことによって何が可能となるのだろう。私たちは普段、単純に「いる」という言葉を使い、〈いる〉と〈居る〉という2つの概念わけをしない。そのことによって、私たちは〈いる〉と〈居る〉を混同させ、混沌とした世界に生きているかもしれない。〈いる〉と〈居る〉の概念わけを行うことで、その区別を明確にし、〈いる〉と〈居る〉の誤用を防ぎたいのだ。
〈いる〉と〈居る〉とは何か、ひとつずつ確認していこう。まず、〈居る〉とは何かから確認する。〈居る〉とは座る、立つ、寝る、または座っている、立っている、寝ているなどの物理的な意味での存在の総称としたい。目の前の木が立っているとか、木が倒れているといった状況に私たちは木が〈居る〉、正確には木が〈在る〉と使うことにしたい。そして、個別の木や〈私〉はいつか消えてなくり、言い換えるならば時間に縛られているという点で、これらは時間世界のものであるということも言うことができるだろう。それに対して、〈いる〉とは言語で表せる存在である。たとえば、目の前にりんごがない状態でもりんごは〈ある〉ということはできるし、この世界からりんごという物体がなくなったとしても、そのりんごは心の中に〈ある〉ということはできる。「りんごが心の中にある」というのは一種のレトリックであるが、ここでは物質と心を対比させるのではなく、物質と言葉を対比させるようにしたい。りんごが〈ある〉というとき、りんごは物質にも時間にも縛られない、無時間世界のものであるということができる。このりんごは個別のりんごとは異なり、うす緑色から赤色に変わることはない。むしろ、そのりんごはうす緑色であり、赤色であることがすでに決められている。それは言葉によって、りんごがどのような性質であるか、私たち人間が決定することである。そのりんごの性質は私たちの決定によって、どんな性質も付け加えることができる。もし、赤色だったりんごが紫色のりんごや、虹色のりんごに変わっていったとしたら、私たちのりんごの定義に紫色であったり、虹色であったりの性質が付け加えられることになろう。つまり、私たちの決定次第で無時間世界のりんごはなんにでもなることができる、いわば万能なりんごである。
言葉の力によって、私たちは万能なりんごを手に入れることができた。この万能なりんごを〈私〉に変えることはできないのであろうか。つまり、なんにでもなれる全能な〈私〉へと言い換えることはできないのであろうか。言い換えることができるのであれば、それは神と言うことができるはずだ。
〈いる〉〈私〉はたとえ、私が物質的に存在しないときでも〈いる〉ことができる。それはりんごが無時間世界のものであり、物質にも時間にも縛られないのと同じだ。それゆえに、この〈私〉はいつでもどこでも存在するものとなる、いわば普遍な存在なのである。さらに、私たちはこの〈私〉にあらゆることを定義することができる。たとえば、無からの創造でも、死者の復活でも言葉で定義できるものであれば、なんでもできる。まさに〈いる〉〈私〉とは神なのである。
全能の話と神の居場所
全能者の能力の範囲外は、矛盾するものを扱うことである。しかし、このことは全能者が矛盾することを扱うことはできないということとは異なる。なぜなら、これは言語の限界であり、神の限界を表すことではないからだ。言葉の定義で矛盾しないものは全能者の能力と認めることはできるが、言葉の定義で矛盾するものは全能者の能力を説明出来ていないと言うことだ。
このことは、イブンルシュドが提起した「石のパラドクス」を解決できるひとつの方法である。「石のパラドクス」とは全能者は本当に全能者かと問うものであるが、それは次のようなものである。「全能者であれば、「自分に持ち上げられない石」を創ることができる」か『「神」という謎』(P.107)、つまり、神は絶対に持ち上げることが出来ない石を創り出し、自分自身でその石を持ち上げることは出来るのかということである。この問いに上枝は次のようにまとめた。「全能とは、矛盾を含まないことであれば何でも行うことができるような能力である。」『同上』(P.109) そして、この「石のパラドクス」を退けるのである。
全能者が言語の能力に縛られてしまうということは何を意味するのだろうか。それは言語が全能者を規定しているということ、つまり、言語が神をつくりだしたのである。というのも、言語がなければ、万能なリンゴも全能な〈私〉も生まれることは無かったからである。先の〈いる〉という概念を使えば、言語の能力が全能者を縛り上げるというのは、神が言語の世界に〈いる〉からである。つまり、〈いる〉とは言語の定義によって生み出された世界を指す言葉なのである。それゆえに、〈私〉は言語が交わされる限り、半永久的に存在することができる無時間世界なのである。
次の2つの節では、〈いる〉〈私〉と〈居る〉〈私〉との関係は、私たちとどのように関わっているのか死後の世界や死者崇拝からみていきたい。
なぜ死後は無であるのか
私たちはまだ死んだことはない、にも関わらず、なぜ私たちは死後が無であることを知っているのか。そしてなぜ私たちは他人の死のみならず〈私〉の死を知っているのだろうか。死後は無であるということは科学的根拠ではなく、〈いる〉と〈居る〉の概念から考えることができるはずだ。
死後が無になるということはただ単に〈私〉が〈居ない〉というだけでは成り立つことができない。もし死後が無というものになるなら、死者が〈居なく〉なり、なおかつ死者が〈いる〉のでなければならない。というのも、死後が無になるなら、死者は無である世界に〈いる〉必要があるからだ。つまり、死後の世界が無であるというのは、死後には天国があるというのと同じぐらい宗教的なのである。神と同じ領域まで存在する死者は言語で矛盾しない限り、どんな定義をすることも、どこにいることも可能なのであり、その点では死後は無であることも、天国であることも言うことができるのである。しかし、私たちは死んだことがない以上、死後の世界はわからないという不可知論をとるしかないのではないか。
なぜ死者を拝めるのか
数十万年前から人は死者を埋葬し、拝めるようになった。それは今も世界中で行われ、日本では死者を仏壇に供え、毎日手を合わせる人もいる。人類はある時を境に、死者を拝めるようになった。では死者を拝めるとき、私たちはどこに向かって、どのように拝めているのだろうか。その問いに答えるためにはまず、死者とは何かをはっきりさせなければならないだろう。
死者とは生物学的にみれば、以前生きていた人という意味で通るであろうが、〈いる〉と〈居る〉の概念を使えば、この世にはもう〈居ない〉人があの世に〈いる〉ということができるだろう。つまり、人は死ぬと〈居る〉世界から消え、言語によってつくられていた〈いる〉世界にだけ存在することになる。なぜなら先に述べたように、人は言語が交わされる限り、半永久的に存在することができるからである。
そして死者はあの世に〈いる〉ために、全能の能力をあたえられる。つまり、死者と神は同系統の者と見なされるのである。それは、死者が日本に神として定着した仏と同じ仏壇に供えられることからも言えるだろう。
私たちが死者から見られていると感じるとき、それは死者がこの世に〈居る〉ということではなくて、あの世に〈いる〉ということである。もっと言えば、物質の世界ではなく(厳密には言語を発する人間が物質の世界に縛られているのであるから、言語の世界は物質の世界に含有されている。しかしここでは物質の世界と独立しているものとみなす)、言語の世界に存在している死者が常に言語を使用する私たちに影響を及ぼすのである。言語から抜け出せない私たちは常に死者に監視されている。そして死者を畏れ、敬うことになるのである。
(死者を拝めるのは死という未知なものの恐怖を、お参りすることによって、精神を安定させるものだという意見もあるが、筆者もそのスタンスを取る。ただ、どうやって精神を安定させているのかというのを、〈いる〉と〈居る〉を使い表現してみたのである。)
なぜ〈私〉が神なのか
ここまで記事を読んでいくと、なぜ〈私〉が神となるのだろうかと疑問に思うことだろう。無時間世界にいるものが全能となると1節では説明したが、無時間世界に〈いる〉のは〈私〉だけではなく、死者が〈いる〉こともりんごが〈ある〉こともある。では、死者やりんごが神でもよいはずだ。しかし、〈私〉とは死者やりんごとは異なるものである。その理由を説明しながら、〈私〉がなぜ神であるかということにも答えていきたい。しかし、その前にまず祈りと〈私〉の関係性からその問いに答えていきたいと思う。
世界中の多くの宗教での祈り方には共通するものがある。それは手を合わせるという行為だ。キリスト教でもヒンドゥー教でも仏教でも、祈るときには手を合わせる。ではなぜ祈るときには手を合わせるのか。そこには宗教一般に関係するものがあると思われる。そして、それも〈いる〉と〈居る〉の関係から見てとれるはずだ。
〈私〉が手を合わせるとき、〈私〉は手と手の感触から〈私〉が〈居る〉ことを確認する。そうすることで、〈私〉を言語化する土台をつくる。そして〈私〉を言語化することで、〈私〉を〈いる〉世界に放り入れる。(この放り入れる人は〈私〉である。〈私〉は〈私〉を無時間世界に放り込める能力を持っていると言ってもいい。)
神が〈いる〉ことを確認するには、〈私〉を言語化しなければならない。しかし、〈私〉を言語化するためには、まず〈私)が〈居る〉という感覚が必要なのである。それは、一度は「これがりんごだ」と教えられることがなければ、りんごというものが、どういうものなのかを知ることはできないことと似ている。手を合わせて、〈私〉は〈居る〉という感覚を知ることによって、さらには言語化できる能力を持つことによって、〈私〉は神となることができるのである。
もう少し、祈るという行為についてみていきたい。今度は絶望的な状況の祈り方についてみていくが、村岡晋一(2017)の「フランツ・ローゼンツヴァイクの名前論」でなにをどうしてよいかわからない祈りについての考察を引用する。
『紀要 哲学 第59号』 P.70
まずわれわれがこのような祈りを祈るとき、この祈りは「それが祈られる以前にすでにかなえられている」。なぜなら、ユダヤ教が典型的に示していたように、祈りが唱えられる神の名前とは本来純粋な呼格であり、その名前が呼ばれればかならずそれに答えるという保証をひたすらその内容としているからである。神の名前が呼ばれるとき、神は「隠れる」と同時に「あらわに」なる。
ここで言う「本来純粋な呼格」とはなにを意味するのだろうか。この引用の後には、「〈ただ一人の〉神」によって「〈われわれ〉の共同体がはじめて実現される」とある。つまり、神が〈私〉の言語化された姿であるなら、言語によって他者と共有できるようになった〈私〉が、〈居る〉という個人の世界から〈いる〉という言語社会にまで拡大される。そして、共通の〈私〉意識が生まれることによって、共同体が実現されるのではないか。「本来純粋な呼格」とは〈私〉を言語化した名前であり、(〈私〉はどんな述語にもついて回るため)〈私〉の共通意識をもった共同体の中では特別な呼格も必要ないのである。
〈私〉を「本来純粋な呼格」で呼ぶということは、〈居る〉〈私〉が〈いる〉〈私〉という神へと呼びかけることである。それゆえ、神は「その名前が呼ばれればかならずそれに答える」のである。そして絶望的な状況だからこそ、〈居る〉〈私〉に答えを与えない神などいない。なぜなら、神はその絶望的な状況に答えを与えるために「あらわに」なったからだ。
では、神が「隠れる」とは一体どういうことだろうか。この引用の前に、村岡は神を二つの概念に分ける。ひとつは、「学問」の神や「子宝」の神といった特定の性質や効用をもつ神である。この神は「名前」をもつ神であり、たとえば、天神さまや布袋尊などがそれにあたる。もうひとつの神は「名前」をもたない「本来純粋な呼格」の神である。つまり、絶望的な状況にいるとき、神は性質や効用を失い「隠れる」のだ。(効用を失うとは、勉強ができる神にすがりつくという他力本願から、〈居る〉〈私〉から〈いる〉〈私〉へと自力での解決へ向かうということである。)
ここまで祈りについてどのように〈私〉と関わっているのかをみてきた。ここからは〈私〉という、世界の絶対的的基準を軸にして、なぜ〈私〉が神なのかという問題に答えていきたい。
私たちは主観的な世界で生きている。私たちはものを見るにも、触るにも「私が~する」というようにすべてに〈私〉がつきまとう。「私が水を飲み」「私がかぎに触れ」「私が楽しさを感じる」というように、まるで主観的ではない世界は存在しないような気すらしてくる。
それを徹底的に突き詰めたのが、ラッセルの「5分前世界創造説」である。ラッセルはたとえ、5分前に世界を創造したとしても問題はないという。5分前よりもさらに前の、ヨーロッパ連合の設立のような出来事も私たちが5分前にすべて記憶に植えつけられた状態で創造されたと言われても、私たちはその問題に反論することはできない(実証することもできないが)。私たちは過去の出来事の確証を記憶に頼っているため、記憶に何らかの操作が加えられれば、過去の出来事にも整合性がなくなる。しかし、中には、記憶に操作が加えられたとしても、科学的な証明のように外界からの証拠があれば、この世界には整合性が求められると言う人がいるかもしれない。しかし、このような人も、私たちが思い描く5分よりも前の世界の証拠は5分前に創造されている、つまり5分前よりも前にも世界は存在するという整合性が5分前に創られたと反論されてしまう。このように外界の科学的証拠を持ち出してきてもラッセルの「5分前世界創造説」は論破することはできない。
この「5分前世界創造説」を見てわかるように、過去とは〈私〉の記憶によって、左右されるものである。もっと言えば、過去は〈私〉の記憶によって生じ、〈私〉の記憶がなければ、過去は存在しないことになる。
この説は唯心論といわれるが、それを批判した唯物論というものも存在する。どちらが正しいとはここでは論じないが、唯心論者がいるということは、それほど〈私〉の影響が大きいということであるということを頭に入れてもらいたい。つまり、何がいいたいかというと、りんごも死者も神格化することはできる。(日本には八百万の神がいると言われているとおりだ。) しかし、それは〈私〉を神格化するほど、影響力の高いものではない。〈私〉は(少なくとも)この感覚世界を作るものである。〈私〉以外のものが八百万の神になるとすれば、〈私〉はゼウス的な最高神なのである。
第3章 三位一体する〈私〉
この章では、最初に〈いる〉と〈居る〉についての概念を把握し、その後に派生した問題に答えていきながら、さらに〈いる〉と〈居る〉をもちいて、神がどのような構造をしているのか理解を深めた。ここでは、〈いる〉が言語世界の存在として示した。そして言語世界というものは私たちが言語を使える限り、半永久的に存在できるものであるから、無時間世界という言葉でも表した。無時間世界というのは一度決めたものが再度、上書きされるまで変わらないということである。それが〈居る〉という時間世界と何が違うかというと、それは変化をしないということである。確かに、無時間世界も、言語が発話者によって影響を受けるように、時間世界から独立することはできないのであるが、時間世界のように、(連続的な)変化するということはない。必ず、発話者によって上書きという断片的な変化によってでしか変化することはできない。
この時間世界と無時間世界という概念を使って、次章では三位一体説を独自に解釈していきながら、さらに〈私〉とは何かについて理解を深めていきたい。
この章では、三位一体説を用いて〈私〉を論じていくが、ここでの三位一体説は本来の三位一体説から離れて、独自に解釈するものである。三位一体説を用いるのではなく、むしろ参考にするといったほうが正しいのかもしれない。
三位一体説とは、キリストをを「父」「子」「精霊」の3つの概念に分類するものだ。この記事では、「父」を〈いる〉〈私〉に、「子」を〈居る〉〈私〉に、「聖霊」を偶然性に当てはめ、〈私〉について論じていく。つまり、キリストを〈私〉に変換して考えてみようというのだ。この3つはどれも〈私〉には欠かせないものであり、論じていく必要があるはずだ。
三位一体とはもともと、父と子と聖霊がそれぞれ3つに独立し、なおかつ3つが1つとなるという考え方である。わかりやすく言うと、1+1+1=1となるような状況である。筆者はキリストがそのまま〈私〉に当てはめることができると考える。つまり、〈私〉は父と子と聖霊によって成り立つものである。
さて、ここから大枠となる3つの考え方をそれぞれ説明していこうと思う。まずは「父」の概念から。
これを筆者なりに解釈すると、この「父」というのは〈いる〉〈私〉である。〈私〉が言語によって、〈居る〉世界から〈いる〉世界に移行したとき、それは(発話者が〈居て〉、上書きされない限り)いつまでも変わらないものとなり、永続性や同一性といった性質を帯びることになるのである。つまり、「父」とは2章で話した〈いる〉〈私〉と同じ考え方なのである。〈私〉が無時間世界へ移行し、「五分前のあなたが五分後のあなたと同じ存在であることを保証する」ことができるのだ。先の「5分前世界創造説」で「いや、〈私〉は5分前よりも前から存在していた」と反論するのは、〈私〉を〈いる〉世界へと移行し、そこで5分前から存在していたと定義するからである。「父」が〈いる〉ことで、〈私〉は〈私〉として存在を規定できるのだ。
次は「子」の概念を見ていこう。
『三位一体モデル』 P.17
「父」というのは「ものごとに一貫性や永続性や同一性を与える原理」のことをさします。ですか、たとえば五分前のあなたと同じ存在であることを保証するのが「父」です。
『同上』P.18
そして、この世界を、かくあるごとくあらしめている「父」は「子」を生みます。それが、イエス・キリストという存在です。その際、「子」は「父」とまったく同じ本質を備えた、完全なコピー体として生まれ、神と人間をつなぐ媒介のはたらきをします。
「父」が〈いる〉〈私〉なら、「子」は〈居る〉〈私〉だと思うかもしれないが、この「子」というのは〈居る〉〈私〉とは少し異なるものである。2章では、〈居る〉〈私〉は座っている、立っている、寝ているなどの物理的な意味での問題の総称と述べたが、この定義に従えば、「父」と「まったく同じ本質を備えた完全なコピー体」であるため、「子」は無限性を帯びる。もちろん、私たちは無限に座っていたり、立っていたり、寝ていることはできない。私たちはいつかは死に、物理的に存在することはなくなる。この点で、私たちは有限性を帯びているといえるだろう。しかし「子」は「父」と同じ本質を備えている。つまり、「子」は定義次第で何でもできるということになろう。これはキリストの存在を正当化するためのものであろうが、ここでは〈私〉の概念を理解するために使いたい。
私たちは〈居る〉〈私〉だけでは、自分自身を自覚することはできない。というのも、私たちは〈居る〉〈私〉から〈いる〉〈私〉を経由しなければ、自覚することはできないからだ。つまり、言語によって〈私〉を対象化することが必要なのである。たとえば、目の前には文字というものがあるが、もし文字という言葉がなければ、ただ単に白と黒のコントラストがあるだけだ。〈私〉についても同じことが言えて、もし〈私〉という言葉がなければ、〈私〉を自覚することはできない。その代わりに、ただ漠然とした全体性があるだけだ。それが〈私〉が〈居る〉ということの正体であり、それ自体では〈私〉ということも認識することはできない。
「子」とは〈居る〉〈私〉を言語化し、〈いる〉〈私〉へと移行させ、さらに言語化された〈私〉を〈居る〉〈私〉に当てはめることである。それは、今までは漠然としていたものが言葉によって理解されるようになることと同じだ。たとえば、江戸時代にタイムスリップし、カメラを皆に見せたとする。そのとき、江戸時代の人々は何事かと驚くだろう。しかし、それがカメラという言葉を与えられることによって、皆に認識されるようになれば、それは風景を写す鉄のかたまりから、カメラという万人の共通認識としてみなされるであろう。そして、その認識を持って、もう一度カメラを見たときには、それは以前の鉄のかたまりではなく、カメラという言葉のフィルターがかかった状態で見ることになる。それがまさに「子」でも、同じことが起こるのである。
〈居る〉〈私〉は〈いる〉〈私〉を経由することによって、純粋な〈私〉ではなく、〈いる〉〈私〉と同じ性質を伴って現れてくる。この〈私〉(つまり「子」)を〈現れる〉〈私〉と呼ぶことにする。そしてこの〈私〉は「神と人間をつなぐ媒介」となる。というのも、今示しているように、言語によって〈現れている〉〈私〉が神(〈いる〉〈私〉)と人間(〈いる〉〈私〉をつなげているからだ。
〈現れる〉〈私〉は神の性質を引き継ぐため、無限性を帯びることになる。私たちが言語によって〈私〉を確認するとき、図らずも〈いる〉〈私〉ではなく、〈現れる〉〈私〉で〈私〉が認識されることがある。そのことが魂は不死であるような直観を得るのではないだろうか。つまり、〈現れる〉〈私〉とは神と〈私〉を同一視した〈私〉なのである。(〈いる〉〈私〉を認識できるのであれば、魂は不死であると認識できると思うかもしれないが、 〈いる〉〈私〉だけでは認識することができない。というのも、〈いる〉〈私〉とは言語化された〈私〉であり、物質的な〈私〉とは異なる存在であるからだ。不死であるということは、半永久的であるという言語化された〈私〉とこの世界に〈居る〉という物質的な〈私〉を同一視させる〈現れる〉〈私〉が必要だからだ。)
『同上』P. 39
まず第一に、キリスト教における「霊」とは、とても不安定な性格であるとされています。いま、そこにいると思ったら、もう別のところへ行ってしまう。その性質も、はっきりとつかまえることはできません。「三位一体」の考えかたが生まれたことから、霊とは「増殖し、躍動し、拡大し、伝染していくもの」と考えられてきたのです。
「霊」の性質は「はっきりとつかまえることができません」とあるが、このことは何を意味するのだろうか。「つかまえる」ことができないというのはつまり、知ることはできないということなのだろうか。私たちはここで、〈いる〉や〈居る〉、〈現れる〉〈私〉から離れなければならない。それで立ち向かうには、はなはだ力不足といえるだろう。「霊」をこの記事なりに解釈するには、新しい考え方を導入する必要がある。
「霊」を知ることはできないという意味でこの概念をとらえるならば、ここでは〈偶然〉という意味で考えていこうと思う。
まずは、筆者が考える〈偶然〉の定義から話していこう。ここで語る〈偶然〉は、低い確率があたったときの偶然とは異なる。つまり、宝くじが当たったときの「偶然だ!」と言うのとは異なるということだ。では、どのような概念なのか。九鬼周造の『偶然と驚きの哲学』から〈偶然〉についての概念を見ていきたい。九鬼は二頭一身の蛇を見たときに驚くことを経験的偶然とした後、原因を持たない自己偶然について語る。(宝くじが当たったという偶然は、普通は当たらないという経験でから生まれたものであり、そのような偶然を経験的偶然という。)
P. 79~80
それは二つの違った因果系列が偶然「出逢った」ための経験的偶然である。そして、二つの違った因果系列が出逢うためには、何か共通の必然的原因が仮りにあったとしても、そういう原因を追って無限に遡るならば、遂には、他の原因を有たない自己原因(causa sui)というようなものに到達すると考えられるであろう。自己原因とは、他に原因を有たないのであるから、厳密に言えば、自己偶然(das durch sich selbst Zufoelige)にほかならぬ。また、自己原因のことを絶対的必然性ということもあるが、絶対的必然性とは、自己の存在を規定する必然性を自己の外に有たないものであるから、それは絶対的偶然性にほかならない。すなわち自己偶然である。それが原始偶然である。【…】いくら取り除いても、最後に、原始偶然だけは残る。偶然性はすべての必然性を包むものである。包越という言葉があるが、偶然性は必然性を包越するものである。【・・・】そして原始偶然が展開したと見るべきものが、与えられたこの現実の世界である。
つまり、2つの頭を持った蛇に出会うことが偶然であるのは、蛇と1つの頭という強く結びついている因果系列のほかに、蛇と2つの頭という弱い因果系列が現れた時である。私たちはその時に「偶然だ」と言うが、それは因果関係が存在するからこそ発することができるのである。しかし原始偶然はそうではない。それはその前に因果関係が存在しないことによって、なぜか存在しているという偶然である。その偶然には存在するための理由がなく、そしてそれが始まりにおいて必ず存在するという意味において「偶然性はすべての必然性を包むものである。」なぜなら、全ての因果系列をさかのぼれば、必ず原始偶然にいきついてしまうからだ。つまり、ドミノ倒しの一番最初には必ず偶然が付きまとうのである。
そしてこの偶然が自己形成に大きな影響を与えるのである。この偶然は宇宙の始まりに限らず、私たちの人生の始まりにおいても意味を持つ。なぜ私は生まれたのかという問いは、自分で考えたことはなくとも、どこかで耳にしたことがあるはずだ。しかし、私たちはその問いに答えることができない。なぜならその問いは原始偶然の性質を含むからだ。たとえ私たちが天文学的な数字で生まれた確率を導き出したとしても、なぜこの〈私〉が〈私〉となったのか答えることはできない。物理的な個体としての〈私〉ではなく、感覚としての〈私〉において、この〈私〉が生まれた原因は存在しないのである。そして、このことによって、私たちは他者とは異なる〈私〉を確立できるのである。九鬼が「偶然性はすべての必然性を包むものである」と言ったのは、原始偶然によって絶対的な〈私〉が確立できることをも意味するのである。
しかし、〈私〉を形成できる偶然というのは、なにも原始偶然だけではない。私たちはこの原始偶然だけでは完全に〈私〉を形成することはなく、また性質の異なる偶然が必要なのである。例えば、私たちの多くは思春期に悩むことはある。その時、のちの人生が決定されるような選択に迫られ、まだ知識や経験が少ないながらも、どちらの進路に進もうか決めなければならない。もちろんその時、どちらの選択が正しいいかはわからない。それはどちらの選択肢の良さも同じ程度で、どちらの選択肢を選んでも変わらないと思うからだ。では、もしどちらの選択肢がいいかわからないが、どちらかの選択に決めなければならないならばどうなるであろうか。そのような時、私たちはその決定に理由を求めることはできない。なぜなら、同じ程度の良さの選択を決定するには偶然性が必要だからだ。私たちが同列の選択を決定するとき、理由が存在することはない。しかし、あえてそこに理由をつけるならば、それは偶然性だろう。このときに生まれる偶然性を同列偶然と呼ぶことにする。この偶然性によって、私たちは「私なりの選択」を見つけることができる。それは原始偶然と同じく「偶然性はすべての必然性を包むものである」ために、この選択が絶対性を帯びるのである。。
ここで話を「霊」に戻すが、「霊」の性質として「増殖し、躍動し、拡大し、伝染していく」というものがあった。この性質は悩みに当てはめることができる。私たちは悩めば悩むほど、悩みは増えていき、心を揺さぶり、また他者へも移っていくものである。それは他者へ相談することで、その者が選択肢に優劣をつけていない限り、その者も同じく悩むのである。悩みの根底には同列偶然が潜み、そしてそれによって〈私〉を確立させていくのである。
2章では〈居る〉〈私〉と〈いる〉〈私〉とに分けて考えていたが、3章ではさらに、〈現れる〉〈私〉という概念を登場させた。3章の話をまとめると、物理的に〈居る〉〈私〉が言語的に〈いる〉〈私〉を経由することで、観念的な〈私〉が〈現れ〉てくるのである。そして、その間に「霊」が介入してくる。「霊」は特殊な存在であり、この3つのいかなる〈私〉をも表しているわけではない。むしろ〈私〉が〈現れ〉てくるまでの変遷を表しているといってもいい。「父」「子」「霊」の3つによって〈私〉は三位一体するのである。
第4章 宗教とは何か
私たちは宗教によって自己肯定感を強めることができ、つまりは〈私〉を確立することができるのだ。ではどのように宗教は影響を与えるのだろうか。なぜ〈私〉を確立させることができるのか。そして〈私〉を確立するとはどのようなものか探っていきたい。
本章ではまず、宗教を①聖典 ②儀式 ③教団 の3つに分けて考えていく。そして前章で答えられていなかった部分を補足しながら、最後には宗教の意味についてもう一度確認していく。
聖典には「豚肉を食べてはいけない」「隣人を愛せよ」などとかかれ、信者はそれを守る必要がある。それはその掟を守ることで、善い人生を送ることができるからという理由だけであろうか。聖典を守るということの背後には、〈私〉の確立というもう一つの理由が潜んでいるように思われる。なぜなら聖典は必ず言語化されなければならず、つまりは〈居る〉ことから〈いる〉ことへの転換が行われるからだ。私たちはいったん「豚肉を食べてはいけない」という言語化された世界へ〈私〉を投影させなければならない。そしてもう一度〈居る〉〈私〉に回帰させることで〈私〉は〈現れ〉てくるのだ。私たちは言語を媒介とすることで新たな〈私〉を手に入れることができる。それが〈現れる〉〈私〉というわけだ。つまり、「豚肉を食べてはいけない」〈私〉を言語によって授受された後に、〈居る〉世界においても「豚肉を食べない」ということを実行することで、単に〈居る〉〈私〉とは異なる〈私〉を手に入れることができるのだ。
聖典
さらに、聖典には「霊」による〈私〉の確立においても論じることができる。先の3章で、「霊」は悩みを〈私〉の確立につなげることができる性質を持つと示した。しかし、悩みを〈私〉の確立につなげるためには、悩みを解決させなければならない。どちらにしようか迷っている段階ではまだ〈私〉は確立されない。なぜなら、確立するためには自らが決定し、そこで偶然性が得られる必要があるからだ。他の人とは異なる自分だけが得られた、なぜだかわからないがこの選択肢にしたという偶然性が〈私〉を確立させることができるのだ。すなわち、「霊」は悩んでいる間ではなく、同列の選択肢をどちらかに決定したときに〈私〉を確立させるのである。
聖典は悩みを解決する手助けとなる。私たちがどちらの選択肢にしようか迷っているときに聖典や教父の助言によって道が開かれるかもしれない。ただ、ここには大きな問題が潜んでいる。つまり、聖典や教父の助言が選択肢を同列ではなくすという問題である。悩みが〈私〉を確立させることができるのは、そこに同列偶然が潜んでいるからであり、どちらがいいかわからない選択肢があるからだ。聖典や教父の助言は選択肢に優劣をつけ、〈私〉を確立させることができなくなるのではないか。おそらく、この意見は正しいであろう。つまり、聖典は〈私〉の確立においては必要のないものであるはずだ。
しかし、悩みが大きく手に負えないときは、〈私〉の確立は二の次であってもいいかもしれない。つまり、人生で一番の岐路に立つときなどはまずはその問題を解決できるように、最善の選択をするべきなのである。
儀式
儀式は最終的には〈私〉の確立へ帰結するが、その過程には一種の高揚感が伴う。(自己肯定感についての議論は他の記事にまわす)その高揚感の後、なぜ〈私〉が確立されるのか。
ここで信じるという行為がどのようなものか考えていきたい。私たちは宗教に限らず、日常の場面でも誰かの言葉を信じることがあるはずだ。例えば、「今日は7時に帰る」と言われたなら、その言葉を信じ、その場面を想定して行動することになろう。言葉を信じているがゆえに、その言葉の通りにいかない時に裏切られたという感情が生まれるのである。
もし相手に何度も裏切られたとき、また同じ言葉をかけられたとしても以前のようには信じることはできないだろう。信じるという行為には常に変化する可能性が考えられるのである。それゆえ、困難な状況に置かれたときに神を信仰するが、その状況が終わってしまえば、すぐに神を信仰しなくなることもあるのだ。つまり、神を信仰するにはその選択権があると言えるだろう。私たちはその都度、心の平常を保つために神を信仰するか決定する権利がある。そこで神を信仰することを選ぶのは理性的な判断によるものではないのか。
信じるという行為を考えた時に、果たして仏教徒やキリスト教徒は逸話や聖書をすべて信じているのかという疑問が出てくる。例えば、ブッダが脇から生まれたことや地球が平面であることを信じているのだろうか。おそらく信じていないだろうが、では疑っているのかと言われたらそれも違うであろう。仏教徒やキリスト教徒にとっても、ある一部分を疑い、完全にその宗教を信じなくなることは現代では考えられにくい。では信仰者にとって誤った説はどのように捉えられているのだろうか。そのような説はもはや信じることや疑うことの次元を超え、受け入れるという言葉で表すことができる領域へ組み込まれていくのではないだろうか。つまり、説が正しいか間違っているかにかかわらず、そのような説の存在があるということを受け入れているのではないか。信仰者は誤った説を信じているのではない。そうではなく信疑と受け入れることをうまく使い分けて信仰しているのである。つまり、現代の信仰者はある種の寛容さをもって信仰していることになる。