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​普通とは何か

​ 哲学カフェで議論した「普通は普通か」というテーマから、今回は考えていく。哲学カフェで議論した内容を基に自分の主張を述べ、そこから対話形式で疑問点を解決していく。最初に3つの論点からおおよその把握を試みたい。

 

 まずは、私たちはどのようなことで「普通だ」や「普通でない」と言うのか。また、そのことからどのようなことが考察できるのかということを論点とする。

 まずは、どのようなときに「普通だ」と言えるのか考えてみたい。私たちは場所によって服装を変えることがある。例えば、葬式では喪服を着ていき、海に入るときは水着を着てはいく。同じように、原宿では紫色やピンク色を基調とした服装も違和感なく周りに溶け込めているが、いったん郊外へ出れば、そのような服装もなじめなくなってしまう。このように普通は場所や状況によって、いたるところで異なっている。その場所はあるコミュニティによって普通の範囲が規定されるため、ある場所の普通は土地の面積ではなく、そのコミュニティの範囲に普通の共通意識が働くことになる。例えば、江戸時代には和服が普通であったが、明治時代に入り、洋服が輸入されるようになると、たちまち洋服を着ることが普通のことになった。これは土地に普通の意識がセットになっているわけではなく、コミュニティの意識が変わっていくことによって、その普通の範囲が決められることになる。つまり、普通は流動性(ダイナミズム)の性質を持っていることになる。

 また、「普通だ」と言う時には、普通ではない相手を普通にさせようとする時、お互いに普通ではない時がある。前者は、「普通だ」と言う人が強い立場にいて、相手の考えや行動を自分や世間一般の考えや行動に変えようとすることであり、後者は、普通ではない者が普通を知っている者から教えてもらうことである。前者は常識ともいわれることがあり、言われる立場の者は矯正される。例えば、お母さんがあいさつをしない子どもに「普通はあいさつをするものだから、あなたもしなさい」と行動を矯正することである。また、後者は、外国に行こうとする時に、その国の普通を教えてもらい、その国に適合することである。このことから「普通だ」と言うことは普通に適合したり、されたりすることであり、一般的にそう言う側が強い立場にある。

 次に「普通ではない」と言うことについて考えていこう。「普通ではない」はプラスの意味とマイナスの意味で使われる。例えば、バルセロナ(サッカーの強豪)と3流チームが戦い、3流チームが勝ったとき、「そんなことが起こるなんて普通ではない」と言うことは驚嘆とともに、プラスの意味が含まれて発せられている。反対に、バルセロナのチームが「今日は普通じゃない」と言うのはマイナスの意味で使われている。ただここでの「普通ではない」とは、事柄が普通ではないだけであり、モノ(人や物)が「普通ではない」というわけではない。モノが「普通ではない」とは平均をはるかに超えて高いか低い値や質を持っている時である。例えば、ものすごく計算ができる者は「普通ではない」。先ほどは「普通だ」と言う側が強い立場にあると言ったが、いったん「普通ではない」者が教える立場になると、「普通ではない」者は強い立場にり、普通のものよりも説得力を持つようになる。(それは教えるということの性質であるかもしれないが、一つの例外としては当てはまる)

 最後に、普通はそう認識されるためにはどうしたらよいか考えていきたい。まず、普通となるためには普通の状態と普通ではない状態がなければならない。例えば魚を生で食べるのが普通である地域と魚は焼かなければ食べない地域があったとして、それぞれの地域には普通と普通ではないものが同時に存在している。魚を生で食べる地域をA、魚を焼いて食べる地域をBとして、Aは自分の地域を普通の文化として考え、Bを普通ではない文化として考える。同じようにBも自分の地域を普通と考え、Aを普通ではない文化として考える。このように普通は価値観の異なる集団が2つ以上存在するときに認識されることになる。そして、AとBを比べた時に、支持者が多い方や権力が強い集団が普通となり、それ以外は普通ではなくなるので、Aの方が実権を握っているとき、Bは普通ではない集団となる。

普通は2つの異なる共通意識から生じ、他方を判断する基準となる。そして、普通は他方の集団を縛り上げる手段ともなる。このことから普通ということを対話によって明らかにしていきたいと思う。

​ F 「では、疑問点を洗い出していきましょう。上の主張から自分の価値観と違うと思うことはありましたか?」

 S 「はい。コミュニティの共通認識が普通を形成するということは分かったのですが、その共通認識はたくさんの人が集まってできたものですよね。でもその人たちが集まる前にも普通はあると思います。例えば、魚を生で食べるのが普通の人が、たった一人で魚を焼いて食べる集団の中にいたとしても、その人にとって魚を生で食べるのは普通ですよね。ということはある価値観を共有する人がいなかったとしても、普通は存在すると思うのですが、どうですか?」

 F 「確かに、その通りだと思います。たとえ集団でなかったとしても、「これが普通である」と主張できますね。では、集団の普通をOrdinary、それを構成する個人の普通を個性という意味でIdenticalと名付けましょう。魚を生で食べるという共通意識があったとしても、その中にはIdenticalという個別の普通が寄せ集まっていると考えます。この定義づけに問題はありますか?」

 S 「いえ、問題ないと思います」

 F 「では、もう少しIdenticalについての説明をしましょう。周囲の人がバルセロナを応援していた時、その場を支配しているのはバルセロナの応援団です。でも、3流チームを応援している人が一人で現れたら、その人はOrdinaryに立ち向かうIdenticalといった感じでしょうか。つまり、一人だけでも普通の認識があるということです。」

 S 「そうですね。IdenticalとOrdinaryは人数の違いはあるものの、同じ普通として考えることができると思います。ただ、OrdinaryはIdenticalが寄せ集まってできたものなので、OrdinaryはIdenticalによって成り立っていると考えられると思います。」

 F 「しかし、むしろOrdinaryが個人に促してIdenticalに影響を与えることもあると思いますが。なので、IdenticalはOrdinaryによっても成り立っていると思います」

 S 「なるほど。しかし、Ordinaryによって、強制的に変えられたIdenticalはIdenticalとよべるのでしょうか。Identicalには個性という意味も含まれていたと思うのですが、いやいや普通と認識しなければいけないという時点で、Identicalとは相反するものであると思います。」

 F 「確かに、いやいやOrdinaryを飲み込まなければいけないのであれば、それはIdenticalとは異なります。しかし、必ずしもいやいやであるとは限らず、特にどちらを応援するか考えていない場合は素直にOdinaryはIdenticalに変わると思います。」

 S 「OrdinaryがIdenticalに影響を与えることは、様々な場面によって異なるということですね。どちらの可能性もあるということを頭に入れて議論してく必要があると思います。」

 F 「では、少し話を戻しましょう。OrdinaryはIdenticalによって成り立っているということでしたが、これは私も賛成です。例えば、魚を生で食べる集団も魚を生で食べるというIdenticalの集合によって成り立っていると思います。」

  

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