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​哲学カフェのあり方

 いつもは関東で哲学カフェに参加していますが、今回は初めて関西の方へ出張しました。

 5日間の旅の計画の中で3回も哲学カフェに参加することができました。一日目は中津ぱぶり家の「いまを生き抜くための勉強会」(本当は何の議論だったのかはわかりません(笑))、二日目はカフェフィロの「見栄とは何か」、三日目はあまがさき哲学カフェの「文化」。ひとつひとつを細かく見ていってもいいのですが、ここでは3つの哲学カフェをまとめて考えていきたいと思います。

 

 哲学カフェをやってみた後の感想としては、少しだけ関東の哲学カフェとはちがうな~と思いました。おそらく主催者の方の理念の違いや土地柄の関係なのかなと思います。本当のことは僕にもわかりません。

 一番、僕が驚いたのは2日目の「見栄とは何か」という議論で、僕が「例えば、ボロボロの服を着てて、その人がおごってやるよと言ったら、その人は見栄を張っているということになると思います。」というと、「もしかしたらその人はパチンコで大勝ちしただけかもしれない。」と意見が返ってきたんです。つまり、見栄でもなんでもなくて、ただ単に機嫌がよかっただけだということです。関東であれば、そのままこの例が前提となって議論が進んでいくのに、関西では待ったがかけられたんです。その時、僕は(なるほど、そういう見方もあるのか)と内心とてもびっくりしていました。関東ではここからさらに抽象的に議論が進んでいくのですが、関西ではさらに現実味を帯びて進んでいきました。

 僕はこの旅で、もう一度哲学カフェのあり方を見つめ直すいい機会に出会ったと思う。いままではさらにいい理論を求めてひとり歩きすることもあったが、この旅でみんなそれぞれ哲学カフェに来る目的が違うということを意識することになった。

 

 

 そろそろ本題に入りましょう。

 哲学カフェは、場所によって多少の違いはありますが、哲学の専門用語を使わないことと人がしゃべっているときは割り込まないという2つのことが主にルールとなっています。

 哲学カフェに参加される方々は、様々な考えで参加されていらっしゃると思います。例えば、日ごろ悩んでいることを話したい人やあるテーマに疑問に思う人、哲学的に物事を考えてみたい人やいろいろな方と議論がしたい人など哲学カフェに来る方は多様な目的を持っています。

 では、その目的に応えるためにどうすればよいのでしょうか。まずは、話し合いの場に皆に平等な関係が成り立っていなければなりません。なぜなら、すべての人が思いついたことを何のためらいもなく発言してほしいからです。なので、討論は必要ありません。討論は、たとえ始まったときには平等な関係で話せるとしても、それが終わった後には、話し方が上手かったり、よりよい理論をもっていた方にパワーが出てきてしまいます。そのため、ある意見が排除され、意見の出ずらい場となるのです。一般的に、批判することはよいことだという考え方がありますが、それは議論する者に権力の差があるときにほかなりません。一方的な提案に対し、本当に正しいかどうか吟味し、もし誤っていると判断すれば、その権力に逆らい、批判することは美徳であると思います。しかし、対等な議論において批判的になることは、むしろパワーバランスの崩壊を招き、ある独裁的な意見が生まれることになります。なので、対等な議論をしていくためには、批判することが必要なくなるのです。

 もうひとつ、僕がこの旅で初めて耳にすることになった「臨床哲学」という言葉。これは具体的な「個別事例」から出発することによって既成の原理を揺さぶり、新たな観念や思考のスタイルを紡ぎ出すことも試みること(はてなキーワード)という定義されています。そして、「臨床」という言葉には実際に病人を診察・治療すること(日本国語大辞典)という意味もあります。「臨床哲学」にはこの「臨床」の意味も含まれ得ているように思われます。つまり、哲学カフェは「臨床哲学」であるとともに、「臨床」をする場所でもあると思います。哲学カフェは正しい理論を考えていく場でもあり、また社会的に貢献もさせていく場でもあるはずです。

 

​3日目 あまがさき哲学カフェ

​1日目 ぱぶり家

 森本さんが主催されている哲学カフェです。アットホームな場で、和やかな議論をされています。

​ 赤井さんが主催されている哲学カフェです。かなり本格的な議論で、様々な意見が飛び交っていました。

​ 皆さん、とても優しい方で笑ったり、いろいろな話を聞かせていただいて、楽しい時間を過ごさせていただきました。紹介させていただいた先でも新しい出会いがあり、とても感謝しています。

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