Haruki Takeda's philosophy
自己の確立とは
自己の確立とはどのようにして行われるのか。また、他者は自己の確立とどのように関係してくるのか。
ここでは2回の哲学カフェで話し合った議論をもとに考えていきたい。
哲学カフェのテーマの一つが「大人とは何か」となっていたが、大人になるということと自己を確立するということがイコールとして考えることができると思い、自己の確立とタイトルには入れることにした。また、もう一つのテーマである「他者の承認」も自分を考えていくには必要であった。
まず大人とは何かと考えたときに、「大人は許容範囲が広いこと」と「自分をだますことができる」と定義づけをした。そして、議論を「自分をだます」とはどういうことかに的を絞って考えることにした。「自分をだます」とは、例えば大勢の前で発表するときに緊張するので、みんなの頭をじゃがいもと思い込むというようなことであったり、他にも、なかなか食べれない高価なものをその似たような食べ物でごまかすというようなことである。そして、そのセンテンスの主語を明らかにすると、その中身は「自分が自分をだます」ことであるという考えに至った。つまり、主語の自分と目的語の自分という2人の自分がいなければいけないことになる。
まずはその2つの自分が何であるかを確認したい。主語の自分は自分自身をだます存在であるため、その自分自身よりも高次の、自分自身を客観的に見れる存在でなければならない。なぜなら、自分自身をだますためには、いったん自分の感情や行動から目をそらし、それを良いか悪いか判断するような存在が必要だからである。つまり、主語の自分とは本能的な自分を客観的に把握し、その自分に対し善悪を区別する自分である。それに対し、目的語の自分とは本能的で、直観的な(哲学の言葉でいえばアプリオリな)自分である。この自分は言葉を持たない動物を想像するとわかりやすいかもしれない。私たちは直観的に物事を判断したり、当たり前のことを当たり前に感じながら生活をする。つまり、そのように自分自身を客観視しないでも生きていけるような自分が目的語の自分となるのである。
「自分が自分をだます」ということがこの二つの自分から成り立っていることを確認していただけただろうか。このセンテンスには客観視する自分と本能的な自分が存在するのである。そして次に、前者の自分が後者の自分をだますということはどういうことか確認していきたい。後者の本能的な自分をだますためには、その自分を偽りの自分とみなす必要がある。客観視する自分は直観的に得られた情報を間違いとみなし、本当の情報はその自分が定義した情報であると本能的な自分に教える。先ほどの例を使えば、大勢の前で発表するとき、人間の頭という情報が直観的に与えられるわけだが、それを客観視する自分が本能的な自分に向かって「それは嘘の情報で、本当の情報はこっちだ」というように、人間の頭をじゃがいもに変えてしまうのである。もう一つの例を挙げるならば、ご飯がないときにご飯が食べたいと思い、しょうがなく豆腐をご飯に見立てて食べるというような時も、直観的にそれが豆腐だとわかるのであるが、客観視する自分がそれはご飯であるという定義を教えるのである。つまり、「自分が自分をだます」とは直観的に得られた情報から異なった定義を自分に与えるということなのである。そして、もう一つここで強調しておきたいことは、その異なった定義が本能的な自分を否定するということである。
「自分で自分をだます」ということを分析した結果から得られたものを使いながら、タイトルの本題に移りたいと思う。自己の確立を考えていくにあったって、まずは人間の諸段階を子供時代、思春期(モラトリアム期)、大人時代の3つに分けて考えていく。そして、それぞれに特性を設けて、その推移の仕方からどのような効果が得られるのかを見ていきたい。
最初に、子供時代から見ていこう。子供時代には本能的な自分という側面が強く、その時代において既に自己は確立されている。わかりやすい例でいえば、子供が正義のヒーローになりきり、地球を救おうとするには、よほど自己が確立していなければ、それほどのことしようとは思わないのである。また、後に思春期で自己が否定されるので、確立をしているといっても完全には確立されているわけではなく、その意味を踏まえ、ここでは子供時代の確立を第一の確立と呼ぶことにする。
では、なぜ子供時代にすでに自己は確立しているのか。その疑問に「原始偶然」(九鬼周三)という考え方を用いて答えていきたいと思う。原始偶然とはそれより前に原因をもたないものであり、科学などの因果関係からその存在意義が判明されることはない。例えば、宇宙で一番最初に起こった事柄がビッグバンだとして、そのビッグバンの前にはいかなる原因を持つことはないので、因果関係から結論を導き出す科学では解き明かすことはできずに、ただ偶然起こったというような説明しかすることはできない。この偶然性はなにも宇宙の始まりだけに見受けられるものではなく、自分にも当てはめることはできる。というのも、科学では天文学的な数字で1/〇で生まれたという確率が出せるであろうが、そこには宇宙の始まりが勘定に入っていない。もしそこに宇宙の始まりを入れるのであれば、途端に計算不可能になってしまうからだ。なぜ私はこの私に生まれたのかという問いに答えることができないのは、そこに原始偶然が含まれるからであり、まさに偶然でしか説明できないからである。そしてこの説明のできなさが私はこの私に生まれるよりほかなかったという方法でしか私が生まれた理由を説明するほかなくさせるのである。ここで自己は第一の確立へと向かっていく。
先の私はこの私に生まれるほかなかったという理由付けによって、他の私ではありえないというような絶対的な自分が誕生するために、子供時代の自分は自己肯定感は上限まで高まることとなる。そのため、本能的な自分は自己が肯定されきっている状態であるが、そこに客観視する自分が現れてくるのだ。
ここで話を思春期に変えよう。思春期には自分を客観視できるようになり、本能的な自分を否定するようになる。この時期になると「自分が自分をだませる」ようになり、直観的に得られた情報、すなわち先の原始偶然から得られる絶対的な自分を否定するようになる。これは他者という自己を持った存在を教えられることにより、自己を持っている存在が自分だけではないことを受け入れなければならなくなるからだ。つまり、私はこの私だけであるという直観を否定し、教育されて新しく私はこの私以外にも存在するという定義を受け入れなければならなくなるのである。例えば、教育されるのが自分ではなくとも、私たちは地球が丸いことを直観的に得た情報からではなく、他者からの教育によってそのことを知る。地球は平らだという直観を否定し、地球は丸いという新たな定義が与えられるのである。私たちは他者からの教育や言語の定義によって過去の自分を否定しなければならなくなる。つまり、私は私ではなくなるという状況に陥るのである。
思春期において、自己が複雑化していき、片方の自分を否定しなければいけない場面が出てくる。それが私はいったい何なのか(本能的な自分と客観視する自分のどちらなのか)というような疑問に、客観視する自分を肯定し、本能的な自分を否定するという場合だ。このとき、客観視する自分が正しいと教育されるため、本能的な自分は思春期においていったん否定され、子供時代の自己の確立は破棄されてしまう。思春期とは自己の確立がなされない状態に移行する時期なのである。
ここまで子供時代と思春期を説明してきたが、ではどうしたら大人時代に到達できるのか。子供時代には説明のできなさによって自己は確立されていたが、思春期になり新たな自分の定義が必要になってくると、たちまち本能的な自分は否定する対象になってしまう。ひとつはこの本能的な自分を否定できることに自己が完全に確立されない原因があるように思える。もう一つは自分という言葉の裏側に他者という対義語がくっついてきていることの扱い方に問題があるように思える。自分という言葉の成立には必ず反対の意味の言葉も同じく誕生しないといけなく、例えば、隣人という言葉の成立には隣人ではないものが前提とされているので、自分という言葉を使うにあたっては他者との関係してくるのである。この二つに答えることが大人時代の到達、および完全な確立をすることができるはずだ。
まずは一つ目の本能的な自分を否定できることから説明しよう。思春期に、新たな自分の定義を受け入れることによって自分が多くの意味を持つようになり、自分の定義の整合性を失い、しまいには元々存在していた本能的な自分を否定するに至った。つまりは本能的な自分と他者から得られた自分に整合性を持たせ、本能的な自分を復活させるか、客観視する自分を克服すればよいのである。では、私はこの私しか存在しないという定義と私のほかにも私が存在しているという定義に整合性を持たせるにはどうしたらよいだろうか。それは私の存在それ自体を否定することで解決できる。私は存在することはない、ゆえにこの私以外の私の存在もないということによってのみ、自分の整合性は保たれる。これは客観視する自分によって新たに定義する自分であるが、もちろん私が存在しないということはない。この直観によって客観視する自分を否定することになる。そして、他者に私以外の私も存在するという定義で本能的な自分を否定していたものが、一転して私は存在するという直観から客観視する自分から与えられた定義を否定し、私は存在する、ゆえにこの私以外の私も存在するという定義が得られるのである。この新たな定義と直観的に得られた定義に整合性を持たせることはできなかったが、本能的な自分を復活させ、客観視する自分を克服することには成功したはずだ。こうして回り巡って戻ってきた第一の自己の確立には、新たに第二の自己の確立へと変貌したといってもよいであろう。大人時代に到達するために、もう一つの問題を見ていこう。
2つ目の問題は自分という言葉の成立の条件には他者という言葉も確立されなければいけないというものだった。区別する必要がないのであれば、自分も他者も同じ人という一単語で表されることができるだろう。自分という言葉が存在している以上、他者も何らかの方法で存在しなければいけなくなる。例えば、他者から無視されてることが、本来他者の存在否定を表しているのに、なぜか自分が否定されるように感じるのは、他者と自分はお互いに連動しあい、他者の存在否定が行われていると同時に自分の存在否定が行われているからである。そのことから、他者からの承認と他者への承認のいずれも重要なことがわかる。ここで注意しておきたいことは、承認という言葉があいさつなどの存在承認とほめることなどのプラスの承認の2つの意味があることである。後者のプラスの承認は他者と自分の存在を肯定するのではなく、優越感を生むだけである。優越感は他者と自分の存在肯定とは異質で、むしろ肯定された後のボーナスステージと考えるのが妥当だろう。当たり前のことであるが、他者の存在を確認するほうが重要なのである。自分という言葉の意味を確立させておくためにも他者の存在承認が必要なのである。
この2つの問題を解決することで、思春期から大人時代へ到達し、自己が確立できるのではないだろうか。
まとめ
子供時代の自己は、私が生まれたことの説明ができなった後の自己肯定によって、すでに確立されている。しかし、思春期になるにつれて、新しく他者から「私はこの私以外も存在する」という定義づけされ、直観的に得られた「私はこの私に生まれるよりほかなかった」という定義づけが否定されるのである。しかし、この否定を変える方法は存在し、その方法によって、完全に自己が確立できる。その一つが「私は存在しない」という定義づけによって、「いや、私は存在する」という直観的に得られる自己の復活にある。もう一つが自己という言葉を守るために、他者の存在を肯定するということだ。筆者はこの2つの方法によって完全に自己が確立できると考える。