Haruki Takeda's philosophy
記憶とイマージュ ―修正版―
イマージュとは何か
イマージュと聞くとイメージを連想するかもしれないが、ここであつかうものとイメージとは異なる。イメージとは私たちの頭の中で浮かび上がってくるアレである。しかし、イマージュはその定義からして頭の中にあるだけではない。もっとも重要な点は、それが内的な精神にあらわれるだけでなく、外的な物質にも適応されるもので、ベルクソンに言わせてみれば、もはや内的や外的の区別は必要のないものである、ということだ。私たちがイメージという言葉を考えるとき、それは頭の中だけで処理されるものと考えられるだろう。しかし、イマージュとは頭の中のものが宇宙にひろがったものとして考えられ、かといって世界精神ではないが、私たちが知覚する質そのものが宇宙をあらわすことになるのだ。例えば、ゴッホは常人とは色覚(色を認識する能力)がことなっていたといわれている。イメージから考えていくと、常人とゴッホの色覚に注目され、論点は常人とゴッホの色覚はどう違うのかとなるのである。反対に、イマージュから考えていくと、その物質にはどんな条件下でどんな質をもつのかということが論点となるだろう。イメージで注目されるのはその能力であるが、イマージュのほうは質そのものにあるのだ。
イメージすることは思い浮かぶアレを生みだすことにあるが、反対にイマージュから知覚することを考えると、思い浮かぶアレは限定されることになる。ベルクソンは次のように言う。
あなたが説明しなければならないのは、だから、どのようにして知覚が生まれるかではない。むしろ知覚はどのようにして限定されるかである。知覚は権利じょう全体のイマージュであるはずなのに、事実上はあなたのかかわりのあるものへと還元されているからだ。
脳はイメージをつくり出すものではなく、イマージュから有用なものを選びとるものである。そして、脳がイメージをつくり出すという認識から精神はどこかにあるものという認識が生まれてしまうのである。
なぜ精神は説明できないのか
宇宙は私たちの中のイメージであるのか、そもそもイメージなど存在しないで、物質の世界があるだけなのか、はたまたイマージュとして存在しているのか、私たちには物的な証拠を上げることはできない。(それもそのはず、物質そのものが問われているからだ。)そのため、論理的な整合性で判断していくしかない。この3つの説のどれを採用するかをもっとも簡潔に答えるならば、宇宙がイメージであるという想定は未来を予見しうる科学の否定となり、イメージは存在しないという想定は思い浮かべるアレの否定となるため、宇宙がイマージュとして存在するという説を採用することになる。
物理学者が物質というとき、それは私たちの感覚を排除した一つの個物として思い浮かべられる。しかし物質は、酸素と鉄の感触が異なるように、その強弱によって差異化させられているにすぎない。そのため、物質は一つの個物として独立して存在するものではなく、質の違いによってのみ把握されなければならない。物理学者は人為的(またはかりものの神の視点によって)つくりあげられた個物を脳の運動に当てはめることで精神の動きを説明しようとする。しかし、ベルクソンは、それぞれ独立した個物がお互いに作用しあって表象を生みだしているわけではなく、宇宙に質が身体におよぼす作用に対して、身体がそれに応対することによって説明する。イマージュは作用と反作用という2つのシステムでつくりあげられている。2つのシステムはイマージュではあるのだが、身体のイマージュは「特権的イマージュ」として存在する。ベルクソンは次のように言う。
おなじイマージュが、同時にふたつのことなったシステムのうちに入りこむことができる。一方のシステムのなかでは、それぞれのイマージュはそれ自体として、周囲のイマージュから現実的な作用を受ける明確に規定された範囲で変容し、他方のシステムのうちでは、すべてのイマージュがただひとつのイマージュに対して、しかもこの特権的イマージュがおよぼす可能な作用を反射する、可変的な範囲において変容する。
ベルクソンに言わせてみれば、宇宙がイメージであるか完全にそれを排除するかという議論は不毛である。なぜなら、イメージと物理学者が言う物質はおなじイマージュとして説明することができるからだ。身体の特権性ゆえにイメージが内部にあり、それ以外が外部にあるという考えが導き出されるが、イマージュにおいては内部や外部といった関係を必要としない。私たちが精神と呼ぶものは作用を受けた身体が可能な行動において反射することである。つまり、そこには何らかのものがある必要はなく、身体の特権においてただ宇宙に反発しているだけである。まず精神があるという前提を立てている時点で、精神を説明することなどできないのである。
感受と知覚
宇宙がイマージュとして存在するのは論理的であるとしても、なぜ身体には特権が与えられているのかという問いには答えられない。身体の特権にはまだ謎が含まれている。
身体のイマージュは外部からの知覚と内部からの感受によってイマージュを認識する。例えば、腕に針が刺さったとき、人は針の感触を知覚し、内側から痛みがこみあげてくる。痛みはイメージだと思われるかもしれないが、ベルクソンにとってそれはイマージュの作用の反射である。つまり、人は針から(針がもつイマージュから限定された)あるイマージュを受け取り、それに身体にとって有用となるような反応をする。感受されるものは針と同じようなイマージュとして考えられなければならない。しかも、その感受のしかたは有用であるか否かによって恣意的にイマージュの大きさが異なる。
ベルクソンは歯の痛みを例に出して説明する。歯の痛みは生命の危機には及びそうもないのにかかわらずものすごい痛みになる。反対に生命の危機にかかわるような病気にはなんの痛みを感じない場合もある。これは痛みが生命の危機に比例して強弱が変わるのではなく、外的な作用に対して抵抗する努力によって変わる、ということだ。つまり、抵抗すれば取り除けるようなものであればあるほど、人は痛みをより強く感じるようになる。ベルクソンはこのことについて次のように言う。
身体はたんに外部からの作用を反射するにとどまるものではない。身体とは闘うものであり、かくてその作用のなにほどかを吸収する。ここに感受の起源が存在することになるだろう。こうして比喩的に語るなら、知覚によって身体の反射する力が測られるとすれば、感受が測るものは身体が吸収する能力なのである。
つまり、身体は知覚によって針の感触という外的イマージュを反射し、それは身体の中に痛みとして吸収する。そのことによって、身体はその感受に対する努力を生じさせ、より有用な環境へと移行させる。感受と知覚は身体がそれ自身のために行動させるような機能なのである。それゆえ、それらは常に表裏一体となり、身体のためだけにうごいている。ベルクソンは、それについて「感受を欠いた知覚は存在しない」という。しかし、感受が存在することで、私たちは外的なイマージュがゆがみをもって知覚されてしまうことになる。そのため、ベルクソンは感受を「知覚にまぎれこむ不純物」とまでいう。ベルクソンは純粋知覚にこだわりをみせ、知覚を純粋なかたちで見出すために感受を差し引いて考えようとする。しかし、その過程は私たちから感情を奪うことと同じことであり、その問題の答えはすでにでている。つまり、身体は感受と知覚という2つの機能によって、はじめて抵抗する努力ができるのであり、片方を排除することはもう片方の機能を停止させることなのである。 そのため、純粋知覚は想定上のものでしかなくなり、ベルクソンは感受を忌み嫌うのである。
この節のはじめにあった身体の特権についての問いに戻ろう。なぜ身体に特権が与えられていたのかは、身体がそれ自体に有用になるように能力を与えていたからにほかならない。しかし、なぜ生物がその能力や宇宙に有用なものを見いだし、その能力をつかうようになったのかは明らかにならない。ベルクソンはこの問題を次のように答える。
すなわち、ひとが曙光を―それは直接的なものから有用なものへと移るみちすじを照らしながら私たちの人間的経験の黎明を告げるものだ―利用しえた、としてみよう。そのときさらに残されている仕事は、現実の曲線についてかくて私たちが認知する無限小の要素によって、曲線そのもののかたちを、それらの要素の背後にある暗がりにひろがるものとして再構成するところにある。
ベルクソンはなぜ生物が「みちすじ」を発見しえたかには答えない。むしろ「みちすじ」をどのように自分のもとに変形させるかと問うているのである。この著作では感受と知覚の起源がないがしろにされている。ベルクソンとは異なる問題提起のしかたが必要である。